金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

四種法の心

息災、増益、敬愛、調伏など密教の四種法はそれぞれそれに臨むのに必要な心が儀軌には説かれているものです。息災なら寂静の心。調伏なら憤怒心というように…。
しかしながら、我々行者がそういう心を持って修法に臨むべきだというのはこれは表面的な解釈であり、本当の意味ではそうではないと考えています。
ではどうすべきなのか?
そこは本当はいずれも本尊の心を頂かないといけない。
例えば相手をいくら憎み恨んで祈ってもそれはただの呪詛であり調伏ではない。本尊の憤怒の心が投影した時、その祈りは真の調伏となる。
よくこんな理不侭な目にあっていのでなんとかしてという相談が来ますが
にわかには私にはその真相はわからない。ご本人にしかわからないことだってあるはず。
本尊を祈るうちに怒りが静まるのならもうそれでいい。もう収めろということでしょう。
さりとて祈るうちむかっ腹立って自分が烈火のようになるのも違う。
自分ではなく仏の怒りを感じるなら本当です。
敬愛、増益も同じこと。
仏が感応しないような祈りは祈れない。それがいかようにもできるように言うのは素人考えです。
本尊の心をもって祈る時にこそまことに四修法が成り立つのだと思います。難しいですよね。
だからこそ、そのためにまず息災なら寂静尊を、調伏なら憤怒尊を本尊にえらんでいるわけでしょう。
敬愛なら主にどちらかというと女性的な愛嬌のある尊を選ぶのもそのため。自分がそこに合せるのです。本尊を動かそうとするのは無駄。
既に本尊の持っているその心にわが心を合わすのです。
勿論難しいことですが、そのために本尊と常に念誦による加持が必要になるわけですね。
たとえば病気を治したいのも本人が一番そう思っている、理不尽を恨んでいるのは当事者でそれ以上の怒りはない。
だから人間的な単なる同情では修法はできないのです。
それは大きな間違いを呼ぶ。
だから祈ってみましょうとは言うが助けてあげましょうなんて生意気は言えないね。
いかに法験ありと言えどもそれは皆本尊の徳によるものです。そこを誤ってはいけない。
これは普通に一般の方が祈願する場合も同じことが言える。
ます本尊の心に自分のお願いを合わせることです。