「幸せ」が当たり前だと言う人は不平不満で暮らす。
果ては神仏を恨む。
そう言う人は信仰から遠い。八難所でいうウッタラグルの類だ。
幸せとは仕合わせだ。
形としては偶然のマッチングともいえよう。
そういう幸せは永くは保てない。
美しく見えても太陽が昇れば消える軒下の氷柱のようなものだ。
空にかかる虹のようなものだ。
幸せがあたり前でなく、人生は不自由、不足がつきもので当たり前。
なにかと四苦八苦があるのが人生。
それだと感謝で暮らせる。
わずかなことでも喜んで暮らせる。
それが仏教の幸せの認識だ。
私は「人間は幸せになるために生まれてきたんです」という言葉位キライな言葉はない。
自然界のあらゆるものを犠牲にしながら100年近くも生きる人間がどうして幸せになるために生まれて来たなどと言えるのか?
あえて方向性を言うなら魂(識)が学び、成長する為にこそ生まれてきたのだと思う。
世の中はどんどん便利に快適になる。
それだけに注意せねば「幸せが当たり前」と勘違いする。
水道などない国、電化されていない地域だって今もあるのだ。
そういう国には不幸な人しかいないのか。そうではないだろう。
便利と幸せは見た目はにているが違うのだ。