昔「私は本心から信仰したいけど、まだどうしても信じられないんです。」といういう信者さんがいた。
大正生まれの女性の経営者さんだった。私はまだ、20代だった。
26歳で祈願道場を開いて2、3年のころ。
この方、欠かさずに御祈願は毎月頼んでくださっているのだけどね。
「こういう気持ちはどうしたらいいの?」というので
「じゃ、もう全部やめてみたらどうです?
辞めてもなにも変わんないなら信仰なんか辞めていいんじゃないの。お金の無駄だもの。」
「・・・・」と黙っていた。
他でも出先で同じような質問ががあった。「私は神仏は信じたいうけど信じられない。いるわけないと思う。アンタ、こういう人間はどうすればいいと思うのか?」
「信じなきゃいいのでは?」
前の同じ方から「ご祈祷に色々ランクがあるのはおかしいのではないのでしょうか。仏様は平等じゃないのですか。」
「仏様は平等だけど人の心は平等じゃないからね。それは皆さんがいいと思うものやればいいんじゃないの。少し風邪気味と生きる死ぬの難病とじゃ同じご祈祷で満足いかない人もいるよね。
あなた、本当にそう思うならご祈祷なんか無くても仏様は平等なんだから頼まなくていいでしょ。
逆に聞きますけどあなたは何でご祈祷頼んでいるの?矛盾ですよね。」
言葉とうらはらに彼女は最後まで熱心だったが・・・どういうつもりで信仰していたか、納得していたのかは仏のみぞ知るだ。
私はやめていく人に心は残らない。
事情も聞かない。残念と思ったこともない。
どういうつもりだろうと続ける人もいれば辞める人もいるのだ。
それが縁だね。縁のあるないに議論の余地などない。
私の知ったことではない。思議及ばざることだもの。