何かにつけなにが正しい事なのか?という正解をいつも探している人は、その次にはそれを万人に履行させようという気になる。
だが人はそれぞれだから言うこと聞いてくれない。
だからいつも不満で過ごす。
いつも「なぜ」という怒りを秘めて生きることになる。
正しさの代辨者として生きる。
だが、あえて言うならそれ自体が正しくないね。
廊下を拭いて徳を積むでなく、毒を積む話。
あるお寺に奉仕にって長い廊下をいつも丁寧にふく信者さんがいた。
そこを檀信徒のひとがドタドタ頻繁にあるく。
小さなゴミや埃も落ちる、なかには足跡も付く。
するとまたふく。
また、汚れる。
またふく。
そうしているうちに次第に腹が立ってくる。
なんで汚すんだ!と思う。
そのうち人が通るとにらむような気持にすらなる。
だが廊下をきれいにするのはそこを人が通るからこそだ。
庭掃くのも同じだ、足跡がつくから歩くなというやつはバカだ。
綺麗にするという善行も人のためを抜けばただの自己満足だ。
そこを抜きにしたらその行為の正しいも正しくないもない。
自分の気持ちだけでしていることになる。
世の中絶対的に正しい固定的なことなどなにもない。物理学か数学くらいのもんだろう。数学でさえ1プラス1は2ではない世界もあるらしい。
ほかはまあ、うまくバランスがとれている。
そんなもんでいいんじゃないの。
私は正しさ追求よりいい加減がいい。
ここでいういい加減は適切な加減の意味だ。
中に人が書いている漢字の筆準が違うだけで「違う!」「無茶苦茶だ」と文句言う人もいる。
そんなものは本来ないのにね。
あとから文部省がつくったんだね。
私的にはそんなもん、どーでもいい。字はよめればいいんじゃないの。
こうやってパソコンで文を書いててそこに筆順なんかある?
「正しさ」に踊らされてる哀れな人だと思う。
ヤダ。ヤダ。めんどくさい。