大森先生が紹介している霊能者に苦しめられた真言宗の大徳のお話。
大体長年霊能者なるものを見てきたのだが、これらに群がる人は極端に言えば一種の依存症だ。
それは必ずしも霊能者ばかりが悪いのではない。
マジカルな人を頼ればうまいことにありつきながらすいすい世の中を渡られるに違いないとするあざとい欲心のなせるところだ。
そういう人間はミイラ取りがミイラになるようなもので依存体質をいいように食い物にする似非霊能者に出会ってうまい人生どころか苦渋の人生を堂々巡りをする。
それもそのはずだ。そこで信仰のありかたの問題に気づかずに、失敗しても懲りないでどこかにもっとホンモノがいるとおもって探すだけだからだ。
そういうバカは相変わらず人生をスーパーマンの判断にゆだねて生きていく方向でしか考えない。
「前、頼りにしてた先生が急に霊能が亡くなってきたようなので困っているんです。そちらに是非お世話になりたい。」などという電話もあったが
「あなた、何か勘違いしてません?」と断ったこともある。
断っておくが私は霊能者というものを決して否定しているのではない。
正しい霊能者はそのへんの線引きがしっかりできている。
これは語っていいこと。悪い事。そして決めるのはあくまで本人。
人に見えないものが見える分には忠告したい気はやまやまだろうが、あくまで人生を生きていくのは当の本人である。
だからおのずといかなるアドバイスにも限度はあり、最終的にはその人間が決めるのが人生というものだ。
そのへんのさじ加減がしっかりある人こそ正しき霊能者というに足る。
そこのところを何でも自分の言う通りにしないと反逆者のように悪く言い憎む未熟な霊能者もいる。
能力がどうあれその人物は承認欲求に振り回される未熟な人間だ。
酷いのはサイコパスの類の病人である。
指示を仰ぐに値しない。百害あって一利ない。
あるいは人の期待に押し負かされてできもしない領域の預言や霊視まであたかもできる如く振る舞い、もうどうにも引っ込みがつかなくなった哀れな霊能者もいる。
そういう霊能者からどうしたらいいかという相談を受けたこともある。
そもそも、なんの宗教でも丸のみのお告げ信仰をしないというのが正しい信仰の在り方だと思う。
大体、霊能者のお告げ信仰に入れ込んで良くなったという人の話は一人も聞かない。
ましてや、信者レベルでもやたらに見える。聞こえる・神様からお告げがあったなどの話ばかりする人間がどこの信仰団体にもいるが主宰者はそうした人を危険人物としてマークすべきだ。
やたらに人にそういうことを話すということでもう全然ダメだね。
そのうち寺や神社の中で小さな教祖様になって獅子身中の虫と化する。
私自身は修行のレベルが低い人間の霊能話などは上っ面で付き合い程度に聞くことはあっても全く問題にはしない。
「ああ、そう」・「へええ・・不思議だね~」でおしまい。
話し込んだら認められていると勘違いする人もいるから。
度を越せば容赦なく追い出す。どんなに私の信奉者でもファンでも関係ない。
私は正しく仏教にアプローチしてほしいだけだ。ましてや、私自身、いわゆる教祖のように崇拝されるなどガラにもない気色悪いことはまっぴらごめんだ。