昨日、電話で「霊能者ですよね」と聞かれたが「違います」といった。
ここでいう霊能者とは霊能を生業にしているかという意味だろう。
それは違う。霊能を看板になどしていない。
「天狐通信」など書いているがあれは霊狐さんから一方的にくることがほとんどだ。
たとえ質問しても向こうが答える必要ないと判断すれば一切答えはこない。
だからこちらもタイミングで聞かない。
何か霊的なものを見えるのしても霊狐さんを通してみているだけで私自身には何の能力もない
自分で自由自在に霊能でひとをみることはできない。
というより、「それはしてはならない」といわれている。
「人は道(仏法)をよりどころにするべきだ。仏のみもとに来て、人生をほとけでなく狐にゆだねるというのか?」と霊狐さんは言う。
たとえ「これはこうだぞ」というアドバイスがあっても人には言わない。
少なくともこの人には「いってやるがいい」という許可があること以外は言わない。
以前、ある熟練のお弟子さんに「役行者を祀るとよい 道場の障碍を去るだろう。」というアドバイスがあり、それは言ってみた。
この人はもう大峰にも何度となく生き、本山加行も、両部の灌頂も受けた人。
だからこそだ。
だが、一般の人に対していうことにそういう霊的権威を付けたくない。
そこからお告げ信仰という依存にはまる。
仏教は自分で、それを知れば自ら正しきを見据えて歩むためにあるのだ。
それを教えるのが寺の役割だ。
だから素人さん霊能者で一々お告げで「こうこういわれた」などというのは当然無視だ。
そういう人はうちに来ないでそれをたよりに自分で歩むがよい。
知る限り、そういう人の多く受け入れれば、アホで場所がらもわきまえず、お寺にきても霊能者気取りでほかの人に同じようなことを連発し、人を迷わす元凶なので受け入れることはしないと決めている。
断っておくがこれは霊能あること自体がいけないのではない。
慎みなく誰彼なくのっけから主観を押し付けようというのが気に食わないからだ。
無意識に人を支配しようという悪い癖だ。
そんなものを認める存念はまったくない。