いま、護摩の加行者がいていろいろめて教えるところですが、護摩とは単純に言えば自分の「火葬」なのです。
自分の全てみんな焼いてしまう。
護摩木は身体の百八節を表し、投物とされるさまざまな穀物は貪 瞋 痴の煩悩であるとされます。
つまり、供物になぞらえて心身を焼き尽くすのが護摩。
じゃあ何にもなくなるの?
いいえ 焼いても焼き切れないものだけが残る。
加行の場合は完全に自己を焼き尽くすことが目的。
そして残ったものを見据えるのです。
でも、どんなに焼いても残る欲がある。
そうした余計な煩悩を除いて残る本当にかなえるべき「欲」によるものをかなえるのが護摩の祈りです。
これもあえてここで「欲」と申します。
そこまでの願いはないですか?
いいえ、大乗の菩薩にはあるはずです。
誓願というのも大きな欲です。
四弘誓願でも五大願でもこれらは大乗菩薩の誓願。
欲なのです。欲も欲。大きな欲です。
ですから大きい欲がいけないのではない。欲の質が大事なのです。
亡くなった前の長吏様からは「欲がないなどというのは少し褒めたことではない。人間は欲がなくて何になるのだ。自分が必ずやああしたい、こうしたいという欲がないのはどうもならん。そこは仏教でいう煩悩などではない。」というおはなしをしていただいたことがある。
我が宗祖智証大師は先輩の慈覚大師が多くの成果を唐の国から持ち帰ってきたのを見て、「もう自分は唐の国に行くのはやめておこう、円仁様があんなに沢山のお経や法義を学んで持って帰ってきたのだから 自分が行くことはもういらないだろう」と思われた。
すると山王権現が現れて「他人がしたから自分はしないでよいというなら、なぜあなたは僧になったのだ。僧だって沢山いるではないか?」といわれた。
この奇瑞をえて智証大師は再度、唐の国への留学を志したと言います。
それは必要なこと。でもそれを自分がしたいというのが大事なのです。
誰かがしたらもう自分じゃなくてもそれでいいじゃないかは誓願ではない。