何処も同じ秋の夕暮れ
この間、狐の憑依の依頼できた電話のお話をしました。
そうしたらある方から電話が来た。
うちの講員ではない。まあ、主な要件は「あいさつ」だったのだが・・
「そのブログの人って○○の信者で○○さんでしょうか?」と知らないお名前を言う。
そういうお名前の方ではなかったし、地域もまるで違う。
でもそういう方は電話をとるやいきなり一方的に話す方が多いので、私はいつもそういう相談をしようとする方に「あなた誰です?どこの県の方です?」と聞き返す。
拒めば電話を切る。
もうこういう方の頭脳では人の都合も何も吹っ飛んでいるからそういう出だしになるんだと思います。
そういう人はお相手できません。
狐憑きだろうが何だろうが礼儀は礼儀だ。
こんなちっぽけな寺でも道場だ。道場に名乗りを上げないで来るものは相手にできません。
デパートや店舗ではないですから。
でも、どこにでもいるんですね。そういう人って。
そのお寺にもそういう人がいて周囲は困惑しているという。
いづこも同じ秋の夕暮れだ。
もし同じような人が来たら…同じような扱いをするだけのことです。
なぜ、助けてあげないかって?
正直、私にはそういう人は助けられないからです。
人の話を聞こうとしない人は無理。
結果が判っているのに来てもらったり、お金を使わすことはできない。
その方が不誠実だ。
有体に思うことを言って追い返す方が親切だと思う。
気合一発でマトモにするとかいうような超能力などありませんので。
聖天様の縁
聖天様のご縁というのは宿世からの結果。
師匠はよくそういわれた。
興教大師 覚鑁さまもまた歓喜天をして「機縁の至り、感涙抑えがたし」といっている。
だから中にはいくらお願いしてもどういう訳か何にも起きない人、何一つかなわない人もいる。
かと思えば聖天様が待ってましたとばかり働いてくれる人もある。
この違いは何?
何も叶わない人が悪人で、叶う人が善人なのかと言えばそうとも限らぬ。
あんな無茶で行儀の悪い人と言うような人でも実によく助けてもらう方もあれば
あんなに上品で親切で…と言う人でも叶わないことは全くかなわない。
いずれも縁が熟しているか否かと言うことだ。
だが縁が熟している御利益をもらいやすい人であっても、不遜で増上慢の人となればたちまち見離されることもある。
いまだ縁が結ばれていない方でも聖天信仰の功徳自体はなくなるわけではない。
少しづつだが積み重ねだ。
祈願が一向叶わない。
その場合は潔く欲願はまずおき、ここは修行場と心得よう。
方々の聖天様を巡って願掛けしても叶わないものは叶わない。
緋ドジョウ君がきました。
玄関の熱帯魚水槽にヒドジョウ 君が入りました。
ベタと一緒に買おうと思っていたらいじめられたので大きい水槽に・・・
ドジョウ君は「いじめられて大きいとこに来られて却ってよかった!」と思っていたりするもしれません。人間も一緒、なにが幸いするかわかりません。
窮すれば通ず。
左下の白いコリドラスとともに大変目立ちます!
聖天様の怖さ
聖天様は新たかだけど怖い神様として知られていますけど、本当に怖いのはご利益をもらった方。それも大きなご利益。たとえば所帯が大きな会社なんか軌道に乗って順調なだけでも本当は大変なご加護が働いている。
だけど順調が続くと人はそれは当たり前のように思ってあぐらかく。
聖天様なんか忘れて、お札も御詣りもただの習慣になる。
それも忘れきったら聖天様だって手を引きます。
とたんにダメになる。バチじゃない。手を引かれた結果です。
もうそうなったら終わりの始まり。
稲荷も同じ構造、先代がよく拝んで立てた会社も二代目、三代目が無関心でつぶれる。
それでどうにか後始末してほしいといってくるが・・・信仰ないからどうにもならない。
眷属一党は今更なんなんだ!と言っているし、稲荷様がいなくてもう別なものが住んでいたりもする。
聖天様はもっと派手だ。大体はっきり出ることが多い。
いったん背を向けた聖天様は呼ばれてもノーリターンです。
黙々と去っていく。知る限り大概帰らない。
あとはただ祇園精舎の鐘の音、沙羅双樹花のいろ、盛者必滅の現報かくのごとしとなる。
新版礼拝要典 頒布のお知らせ
新版礼拝要典できました。残念ながら宝筐印陀羅尼にぬけがありましたので今回は別冊をつけております。
表面 裏表ともに基本的に前をもとにしていますが内容は前回より増えています。ただし菩薩行願文などいくつかカットしました。
こちらは裏面 毘沙門天経の偈文を除き最勝王経四天王護国品の略出が出ています。
一般頒布の場合は代金は5000円に送料250円分の切手を書留に同封してお送りください。
なお、代金お送りの際は「礼拝要典希望 ご住所、お名前 お電話」を書いた紙を現金封筒の中にも必ずお入れください。(それは郵便法に抵触しません)
なんのお金だかわからないと困りますので。
講員様は送料サービスしますのでご注文連絡あれば発送します。
なお普通の封筒での現金送付は厳にお断りします。
あいかわらずだね
相変わらずですね、テドロスさん 誰の目にもそう映るのでは?
「おまえ!まさか本気で調査する気じゃないだろうな?」
「滅相もございません。決してそのようなご心配は・・・」ですか。(笑)
何でも知ってる陰謀屋さん
世の中に陰謀論と言うのがあるが、こういうのは霊障と同じ。
本当の陰謀もあるでしょう。無数にあるには決まっている。
本当の霊障があるように。
だが世の中でささやかれてるようものは陰謀じゃない。
そもそもだれもが知ってる有名な陰謀ってあるの?
○○は陰謀だと教えてくれる人もいるけど、本当の陰謀は人と場所柄と時を選んで語られるもんでしょ。
「これ実は絶対いっちゃだめですけどね」と井戸端会議で語られるのはせいぜい町内会の陰謀くらいのもんだ。
最近は陰謀を語る陰謀屋さんもいる。陰謀の本買って講演聞きに行く。
そういうグループ。
陰謀論も商売だ。陰謀屋さんだ。
そういう陰謀論の特徴は脈絡がない。へんな予言宗教みたいなものだ。
ある一点だけで「そうか‼そうだったんだ。なるほど!」と納得したら、あとは省略。
そういう脳みその方々が集まる。一点納得主義であとは空想と憶測でパズルを勝手に埋めてストーリーができていく。
事実から検証する脳がストップする。そこははまればいわゆる頭の良し悪しは関係ない。
それでおかしいのは出元はひとつだけでなくありとあらゆることを知って提供している。
最近は「さあ買った。買った。アッと驚く新型コロナ関係の陰謀が大廉売!これを知ると知らないとじゃ大違いだ!」という具合ですな。
あれも陰謀、此れも陰謀。
そんなにほうぼうの陰謀知ってるわけがない。
本当に知っているならただの一事を部分的に知っているようなもんだ。
陰謀全部知ってるの陰謀映画の脚本家くらいのもんだ。
そういうと「いや実はCIAの元高官とパイプが」とか「ユダヤの大富豪の私的情報網から」とか「内閣諜報室の裏組織から」とかいう。
それを語る人を本気であがめて崇拝している。結構毛だらけだ。
申し訳ないがバカバカしい。そんなの信じるなら私はまだ、バルタン星人やケムール人の方を信じる。
まあ、そういうと哀れなヤツだと思うんでしょうね。そういうの信じてる人は。
「教祖様は他天体からやってきた高度な頭脳の持ち主だからテレパシーで何でもわかるのだ」みたいなもんだね。大して変わんない。
そこまででなくても「今は○○が買いなんです!」と吹き込むインチキ相場師みたいなもの。電話でヒソヒソ声で話す。いやはや演出もタップリ。
こういう電話もよく来るけど私ももっとヒソヒソ声で「じゃアンタが買えば?人に教えりゃ損ですよ。」と言っている。
これは陰謀と言うほどではないが大昔、ある筋(どこだかしらない)から父に電話があった。
父は大戦時中、大尉で国内で落下傘作成の第一人者だったそうだ。
その技術を生かして父はテントの会社を作った。
「ベトナム戦争で特殊な落下傘を作るから参加してくれ」と言う依頼だったそうだ。
これはずーっと後で聞かされた。
当時はこれをしゃべったら家族もろともにおそらく消されていたかもしれないので言わなかったと語った。
今考えると憶測にすぎぬが、父が修行していた親会社がそういう戦中に活躍した落下傘工場の技術者たちの集まりだったように思う。
「もう、戦争に手を貸すのは嫌です。勘弁してください」と何度も言ってなんとか断ったそうだ。
ご用心‼ これも私のウソかもよ。(笑)
令和3年春季彼岸会の感想その17 善龍庵
大森先生
お世話になっております。春の彼岸会を申し込みました○○○○です。お礼とご連絡が大変遅くなり、申し訳ございません。
春の彼岸会に参加させていただき、ありがとうございました。初めての彼岸会にもかかわらず、あまりの心地良さにお彼岸の期間は毎日お勤めいたしました。
何か夢を見たとか不思議な体験があった訳ではありませんが、お次第を済ませた後の、まさし春のような柔らかな空気。最後の合掌一礼では嬉しく温かく有り難い気持ちで一杯になり、しばらくは頭を垂れたまま、ただただ「ありがとうございます」と何度も唱えておりました。
私が感じたこの幸せな心地良さが少しでもご先祖様たちにも届きましたら嬉しいです。とても良い経験をさせて頂き感謝しております。ありがとうございました。
滅罪会は今も続けています。最初は「愛犬にお水を与えたい一心で」継続しておりましたが、今では「毎日私の『懺悔時々愚痴、たまに言い訳』」を受け止めて下さる准胝観音様や宝篋印塔様へ「本当にありがとうございます」の気持ちを伝えたく、やはり頭を垂れる毎日です。
大森先生、いつもお世話になり、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。おかげさまで私も愛犬○○も「ぼちぼち元気の良い感じ♪」です。
お知らせ
4月11日からの施餓鬼供養の申し込み締め切りは明日4月7日水曜日までです。
自分なんか簡単に愛しちゃダメ
スピリチュアルな講座に行くと「あなたは自分を愛していないですね。」などという指摘をされることは良くあるようです。
「でも自分を愛するのは難しいよ~。わからん!」と言うのも良く聞く話だ。
実際自分を愛するってなんなんだろう。
自分を優先して考えるのは誰でもそうでしょ。そんなことするなと言っても自然とする。それが生命の本質だ。
誰でもエゴの塊だ。動物はそれだけで生きてる。
でも種族繁栄のためには本能的動物ほど簡単に自分を捨てる。
交尾の後、雌の栄養のために食べられちゃう雄のカマキリとかいますでしょう。
だからここでいう自分を愛するとはそういうことではないんでしょうね。
私が思う「自分を愛する」はエゴや生存本能じゃない。
それは自分を肯定するということ。
肯定できない自分の味方になって生きていくのは大変だよねということ。
肯定できない自分だからこそエゴや生存本能が悲鳴を上げる。
甚だしくは自殺までする。
だけどそう簡単に自分を肯定しちゃ困るね。
「駄目な自分のままで本当はいいんだ!」ということにもなる。
「自分を愛する」のはいろいろと努力の結果じゃないと無理なんだと思う。
そうでないとただのロクデナシでしょう。あるがままなんて。
あるがままでいい、あるがままが美しいのは花や虫や動物です。
そこへ行くと人間の「あるがまま」は高度なもんだ。
簡単にはそこへいけない。
花伝書なら守・破・離の離だ。そのレベルでいえること。
だから人生の晩年は割合と誰でも自分を愛せますよ。たぶんね。
「色々したけど色々あったけどこんなだね。結局自分って」と良くも悪くも認められる。もっとわかりやすくいえば諦める。もう無駄なジタバタしない。
なんか敗北的?いえいえ、諦めるという字は言葉の帝と書く。
帝は頂点だ。自分を愛するのは人生の帝になってすること
だけど若いうちはそんなわけにはいかない。
「こんな自分じゃいやだ~」
「自分なんか大・大・大嫌い!」
だから前に進むんだね。そういう人ほどそうです。
そういう意味では若いうちはみだりに自分なんか愛しちゃだめだ!と思います。