さて仏前に出現したこの天女は何ものでしょう。御経では誰とも最後まで言わないのですが、実は弁天様なのです。その話はまずおいて天女は言います。
一は飢渇神 二は貪欲神 三は障礙神なり。各々大誓願をおこして云う。
大昔、空王如来という方があったといいます。この方の使者に三人あり。
つまり飢渇神、貪欲神、障礙神の三人で彼らは末世に荒神となって強欲で施さず、仏法を軽んじる者の財物を奪い取るというのです。如来さまの使者ともあろう存在がやることがえらく手荒ですがなぜそんなことをするのでしょう。
貨幣経済というのは実に最大級の大発明でそのおかげで人は一人であらゆることをしなくても済むのです。米を作る人、家を作る人、衣類を整える人またそれらを売る人ものを運ぶ人という具合に専門職ができれば基本はそれだけ一生懸命やっていれば済むわけです。それが一人で米を作り衣類を縫い、家まで建てないといけない。そんなことを一人一人が営々としていたら世の中はいつまでたってもただ、ただ生きるということだけに追われてしまいます。そうなれば文化も発見も学問もなく世の中の発展もありません。だから大昔でも身分のある者だけがそういうことをして他の庶民はそういう人の衣食住のために働いたわけです。そうでなければそういう余裕は産まれません。ところが貨幣経済ができて専門の職業というのがはじめてしっかりとできたわけです。それで誰でも生活にある程度余裕が生まれてくるというわけです。ただし、このように便利な貨幣経済、すなわちお金ではありますがこれにあまりに執着すると今度は大きな誤解が生まれます。
それはお金さえあれば良いのだという幻想です。お金は所詮人間が発明したものです。人間が作った流通システムがあって初めて機能するのです。またお金は実は「もの」でなく「流れ」なのです。流通しなくてはお金自体はただの紙や金属です。
ここを誤解するとお金の考えは非常に間違ったもの、ゆがんだものになります。お金を単にモノと考えるとつかえば減るし、使わなければたまります、しかし使わなければまた役に立たないのもお金です。お金は流れと考えればそこは変わってきます。入ってよし、出てよしがお金の本当の姿だとわかります。