「本誓をうたがわざれば、早く万悪を払わん。我、方便にこの身を顕現す。一切衆生を哀愍教化せん。」
それは自分の体験する良いことも悪いことも荒神様のおしえ、自分の阿頼耶識の出した結果という認識を持つことです。つまりこの世は我々の鏡、阿頼耶識の鏡なのです。ですから今の自分の状況が如何に悪くても良くてもそれを受け入れていくことに人生打開のコツがあります。そして、もしそうしないならば貴方は人生の舵取りを放棄したことになります。
金銭的に大変だろうが孤独だろうが病気で辛かろうがそれをまず現状として誤魔化すことなく認識し、うけいれることで人は少し楽になります。そして、そこから出発する以外ないのです。よくテレビゲームなどで先に進めないときにどこかに鍵があるようなものです。それを手に入れるにはまずその場面のなかで探さないといけないでしょう。そういうことです。それをクリアできないからといってそこから逃げてしまったり、投げてしまっては鍵は見つかりようがありませんね。ですから恐ろしい荒神様の姿も実は我々の阿頼耶識が作り出したものです。
「昔日の大日如来、文殊殊利、不動明王また、貪瞋痴の三鬼もまたかくの如し。意荒立つときは三宝荒神、もし寂かなるときは本有の如来なり。その時に三神おのおの仏足を禮して仏に申してもうさく。今説くところの咒は人民を護持し福徳を施与し障礙を除却せん。すなわち咒をといてのたまわく。
昔日のというのは昔はもともと荒神様は大日様や文殊様、お不動様という仏だったということです。これはそういう表現ですね、昔ではなく今でも未来でも永遠に三宝荒神の本質は仏でありますが、三毒神もまた同じ存在であり、心が煩悩に荒立てば荒神であり、心が安定してしずかならば本来の如来なのだということです。
聖天信仰の方では荒神様はやはり聖天様と同じで十一面観音の化身といいます。
どちらも聖天様にゆかりがとても深い神様です。この時の荒神さんは普通の真っ赤で怒れる荒神様でなく「如来荒神」つまり本有の如来の方の荒神様のおすがたを作っていただきました。