金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

無我相

そんなに熱心に打ち込んできたわけではないのですが長年、金剛禅と云うのをしています。これは濱地天松居士という在家の禅者が宣揚したものです。
ずぼらにやってはいても長年やっているせいか妙味があります。
これをしていますと空と云うことがストンと腑に落ちるのです。
そのやり方は形は普通の座禅と同じですが「無我相」ということを唱えて座禅していきます。無論声には出さないで吐く吸う吐くの順番でひと文字ずつ「無」「我」「相」とやっていくわけです。
そうやって行くと自然と天台宗で「十如是」の三転読みと云うのがあるように無我相が

「我無き相」  私の無い姿かたち これを法無我といいます。
「相に我無し」 姿かたちに私なし  これを人無我といいます。
「我に相なし」 私に定まりし姿なし これが本来の金剛経の無我相の意味です。

と自ずから解釈されて何とも自由な心になれるのです。
私というものは空であるということをよく言います。しかし大事なのは世界もまた空だということです。私だけ空だとか無だとかということにだけ集中しますと何とも自分が幽霊にでもなったかのようなこころもとない、はかない気になりますが、もともと全てが空であり空のほかはなにもないのです。しかもそれは空そのままに我々が触れたり見たりしている姿かたちそのものなのです。
空はそのままこの宇宙の姿かたちであり、ほかにはなにもありません。
空は固定的な中心や本体などないということをいうものです。ですから何か今、困った問題があったとしてもそれもせんじ詰めれば空、そして悩む「貴方」も空です。空と云うことは固定ではないのだということです。
禅家的に言うなら「どこにもいない人間がなにも無い問題に悩んでいる」とうことになるのです。
川の姿はいつも同じようですが流れる水はつねに変わって止むことはありません。
世の中は色々と住辛いところではあっても、このことを思うととても自由な晴れやかな気持ちになれます。