今日はやや扱いの難しい問題なのですが「不邪淫戒」について少し考えてみます。
仏教には色々と戒律がありますが中で「四波羅夷罪」というのは大変に重く受け止められてきました。
即ち殺生、偸盗、淫、妄語です。このうち殺生、偸盗、妄語は僧俗一貫の戒です。つまり殺人や生き物の殺戮、
盗むこと、嘘を言うことは出家、在家を問わず最重罪であります。原始仏教では教団追放でした。
ただ、淫亊のみは在家であれば正淫、邪淫の区別があります。
僧侶の場合は妻帯はしませんので「不淫戒」となります。
ところが現代では僧侶でも結婚するのが当たり前でしないと大変だとさえ思うという時代になりました。
なぜなら現代ではお寺の運営が事実上、世襲なので子孫が後を継ぐのが当たり前のようになってしまったからです。お寺の跡継ぎがいないと困るというわけです。
こんなことになっているのは日本の仏教だけでしょう。
ただし尼僧さんは結婚しない人もかなりいるようです。
日本のお坊さんの多くは頭を剃る以外はその生活は在家と変わりません。
かくいう私も結婚こそしていませんが、ふつうになんでも食べますし、お酒を飲むこともままあります。厳密にはこれもいけないそうですが歌舞音曲も聞きます。足の着いた高いベッドでも寝ます。これまたいけないことです。
こうした生活上の決め事は「戒」と云うより「律」にあたるものですが現代の仏教ではほとんどこうした律のようなものは守られていない状態です。
これに対し「戒」と云うのは対人、あるいは対生物の戒めです。つまり相手にどう処するかです。「律」はいわば修行上の決めごと、細則ですので守らなくても人は迷惑しません。しかし戒はそうではありません。
在家における邪淫と云うのはいうまでもなくパートナーと違う人と性交渉すること、わかりやすくいえば「不倫」です。
現代では愛の在り方は色々です。
こういうと驚く人もあるかもしれません。
でも日本以外の仏教国では「お坊さんの結婚」のほうがはるかにオドロキです。
なぜなら出家は結婚しない、家庭を持たないことが出家の大前提だからです。
たとえばカソリックでは離婚はいけないことだと言います。勿論、不倫などとんでもないことです。では不倫はなぜよくないのでしょう。
不倫とは字からして「倫理に非ず」の意味ですから、家庭にひびが入るなどの道徳上の問題はいまさら言うまでもないので、ここでは道徳的なことを措いて考えてみたいと思います。
不倫関係にある人もお寺にみえることはあります。
信仰深い方もいますが、信者になるには受戒の上で不邪淫戒があるのでそれをやめない限り正規の信徒にはなってもらうことはできません。
割合見えるのは女性が多いのですが、不倫は相手のあることですから男性も同数いるに決まっています。
不倫関係になるのには色々訳もあるでしょう。
でも共通するのはまずもうその人の心は現役のパートナーの方をあまり向いていないということです。
大乗仏教はすべてを「因縁生起」の存在といいます。いいかえれば人間は実は時間的存在なのです。
つまり、我々がすごしてきた「時間」こそが我々そのものです。自分のすごしてきた時間を抜きにして自分と云う存在はほかにはありません。
ですから今は不仲なパートナーと過ごしてきた時間も実は自分そのものなのです。
それを頭から否定してしまうというと本当は自己否定につながるのです。
ここは難しいところです。
勿論、中には愛情が完全に枯渇してしまったり、暴力的なパートナーや金使いの荒いパートナーもいますから離婚することだって自分を活かすうえでは必要なこともあるでしょう。
また、もっと好きな人が出てきたということもありましょう。愛情は先着順に存在するとはとは限りませんから。
しかし「不倫」と云う状態では自分という時間的存在が生かし切れていないのです。どっちつかずの宙ぶらりん状態なのです。
その多くが自分の今までのパートナーと過ごした時間も肯定できないが、今ここに新たにできた関係も肯定しきれていない状態です。全てが活かしきれないままの状態です。それがだらだらと連続して行きます。
いわばこの間、時間が死んでいるのです。時間が死んでいる間は自分もある意味死んでいます。
ですから私は「自分が勿体ないですよ」と申し上げています。