金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

他人の祈願はどうすれば叶う?

ある方から他人のために一生懸命に祈願をしているがうまくいかないので私に祈祷してほしいという手紙をもらいました。そういう方もいるでしょうから今日はその問題点を考えてみましょう。
以下はお返事の手紙をもとにした私の答えです。


人間にはそれぞれその人の使命があります。そして勿論、自分には自分の使命があります。
同じように他人のことは本来、本人がすべきなのです。
それがルールです。祈願も同じです。
本人が仏縁が熟していないと難しいことも多々あります。
ですから「○○さんのことを祈ってあげて」というのは本来とても難しいのです。
十一面経に「我が名を知るものは宿世の福分あり」と云いますが、直接本尊様に出会っているか、いないかは天地の開きなのです。
(ですから、十一面様を知っている人は超ラッキーなのです!)
こういう場合は必要なのはその人のための直接的な祈りではなく、自分自身が他人様の役にたてるよう「自己成長の祈り」です。
自分はその人に何ができますか?
「観音様どうか助けてあげてください」ではなく、あくまで「自分自身」が助けてあげられるようその力を得ることを祈るのです。
自分抜きで他人のことをよくするのは基本的には駄目です
自分のできることだけで関わるのがルールです。
例えば1000万円の借財で苦しんでいる人がいたらどうします?1000万円は自分はないのにどこかで工面して借りてきても渡しますか?
それはしてはならないことです。全然よい事でもなんでもなく大間違いです
たとえ苦しんでいようが因果の世界から言えばその人は1000万円返すということで必要な「修行」をしているのです。
成功した人もしない人も死ねばそこでゲームオーバーです。
そこでステージは変わります。
でも本当は成功した人が高得点でしない人は低いとは限りません。
この世は本来、学び、修行するための場なのです。必ずしも願望達成の場ではないのです。学びや修行を完成させることが結果として願望達成と云うスタイルをとることはあるでしょうけど。でもそれは結果的な形であり目的ではありません。
「以前は色々ありがたいことがあっても最近は祈願がどうも叶わない」ということですが、もし、あなたが本当にありがたいと思うのなら、しばらくは本尊を煩わすような祈願は一切やめて自分の力で事をしましょう。「お礼参りするから次も叶えてね。」はいけません。「自分の欲願じゃなく、感心にも他人のことを祈っているのだから叶えて下さいよ。」どちらも届きません。
それは本当の感謝ではありません。
皆さんは助けて頂いた傍からその恩人にじゃあ次はこれを叶えて下さいと即、言えますか?
祈願しないこともまた信仰です。
そして本尊に頼む前に自分は何をしていますか?
自分の行動のない祈りは叶いません。
見回せばいろいろ気の毒な人はいますがまず、自分が直接助けてあげられるように自らの力をつけるための祈りが大事です。祈りの結果を他人に施す「回向」の心です。自分が人のためになれますようにという祈りです。本尊にやらせるのじゃだめです。
まして自分が関われない他人の問題を影ながら祈る場合には祈祷を頼むまでいりません。まずは自分で普通にお参りするのです。
諸尊はすべて「衆生無辺誓願度」の誓願を立てていますからあなたが祈ればそれで十分ですよ。そこは難しく考えないことです。