金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

受け皿

前々から鬱病で悩んでいた知り合いが最新式の電流を脳に通す方法で診断してもらったら「双極性障害」だったという話を聞きました。
解りやすく言うと単に「鬱病」ではなく「躁鬱症」ということでしょう。
この躁鬱症というのは鬱に対して躁状態は元気で楽しいのかと思いがちだけどそうではないみたいです。
ニコニコして陽気にあふれるというのでなく、怒るときはとても大きな声を出して怒鳴ったり、悲しむときもオーバーに悲痛な声を上げたり、要はエネルギー過剰な状態なのでしょう。
私などもひょっとするとかなりこれに近いかもと思うこともないではありません。
というのは本などの執筆はぎりぎりまで全くやる気なく、突如書き出したらほとんど止まらないという風だからです。
そういう止まらない状態の前はかなりの間ホゲーッとしています。
ただボーッとテレビ見ていたり、ゲームしたり、ほとんど意味ないことをひたすらやる。・・・というより何もしないということです。でもこの時間に何かが蓄積されて次のステップに行くのであると思っています。だから敢えてそうしています。意識的に怠けるのです。
それを無視してバリバリやろうとすると擦り切れてきます。
丁度、蛇や蛙のように冬眠している時期と活動期があるような感じ。
たとえば私は本を読むのは冬眠期の方がいいです。
受け身なので内容が良く入ります。
活動期だと読むより書くに転じます本を読んだりしてもあんまりじっくり読まない。面倒なのでレジュメから見て要点らしいとこをよんでおしまいにします。
此れが極端になると双極性障害かもしれない。
私の場合、これが障害にはなっていませんが双極性は明確にあります。
でも自分にも他人様にも何も差しさわりはありません。
だから双極性って病気と云うよりあるパターンのバランスのとり方をしているのかもと勝手に思うのですね。
冬眠する動物としない動物。どちらが正しい冬の過ごし方っていうのはないでしょう。
ようはそれで支障なくやっていければいいわけです。

肝心なのは受け皿。
つまり、支障なく生きるための受け皿があれば障害は必ずしも障害ではない。
たとえばロッククライミングできる人。出来ない人もいます。
出来なくても支障ないのは何故でしょう。
日常的にロッククライミングが必要でない生活をしているからです。
でも、地球が大造山運動が起きて岩山だけになったらこれは必要不可欠かも知れない。此れができない人はアウトということになります。
同じように、たとえば海に関する仕事として全く泳げないとしたらそれは大きな問題かもしれません。泳げないことで悩む。泳げない自分はダメな奴だと自己嫌悪になるかもしれません。
もっとも泳げないのに海洋に関する仕事はあまりしょうとしないでしょうけど。
でも必要なスキルが無くて自分はダメだと思ってしまうのは社会に良くあることです。
動物は違いますね。
たぶんリクガメは泳げないことを悩んだりしないし、魚は陸に上がれないことで困ったりしません。
その生態に即した生活をしているのみです。
人間も本当はそうなんでしょう。
だから悩まなくていい場所に自分をおけばそれだけでもう即、楽になれますね。
問題はそういうところ探すのは結構骨が折れるかもしれないけど。
自分にあった受け皿があるナシで人生は大きく変わるのです。

たとえば私が心理学の学部にいたころの臨床心理学より以前の見解ではまだ「同性愛」と云うのは「性倒錯」と云う病気と教えられました。
私の年代あたりでどうやら病ではないらしいという風に異論も少し出ててきた。
最近はもう病気ではないというのが通説です。
渋谷なんかは区の行政が同性でもカップルとして扱うようになったというニュースを聞きました。
これも社会に受け皿ができたからでしょう。
この受け皿を「文化」と云います。
だから文化は多様性があった方がいいのです。
多様性のない文化は不幸な人がいっぱい出ます。
そういう意味では宗教だっていっぱいあった方がいいのだろうと思います。
そして何より大事なのはそれらが共存できることです。。
たとえばクルド人の宗教ヤジディ教はかなり変わっています。一神教ですが別に「孔雀天使」=マラク・ターウースーと云うのを崇拝します。これはもとは堕天使で悪魔だったそうです。
青い色は神聖なので普段使わない。レタスは食べちゃいけない。
こういう宗教は日本では流行るかどうか知りませんが、(実際は民族宗教クルド人以外信者になれないそうですけど)イスラミック・ステートはこの宗教を崇めるクルド人を目の敵にしています。
クルド人は我々の奴隷としてしか存在が許されないとまでいいます。
なんか昔のヒーロー物や漫画の悪の組織みたいですね。
しかしながら全体をなにかに統一しようとするとき当然、異分子は邪魔になるわけです。
特に戦争になったり、思想の統一が必要になるとそうなります。
戦時中の日本や今の共産主義の中国や北朝鮮はこれです。
非常時にはある程度統一ということは必要ですが弾圧はあってはならない。
一番簡単なやりかたは人と違うのは悪だというレッテルを張って弾圧や切り捨てをするのですがこれは極端な話、虐殺などに繋がるあってはならないことです。
これに対して色々な人間の受け皿が多ければ多いだけ社会は豊かです。
本当に平和ということは単純に戦乱がないことじゃない。
受け皿が沢山あることだと思う。
そういう奴が出てめんどうにならないうち、お前は違うぞ。社会のために排除だ。病気だ。異常性格者だと云って粛清したって表面上は平和なことは平和です。
この多様性を護るためには戦乱もあり得ますよ。血が流れないなら、騒ぎがないならそれでいいのではないでしょう。
要するに受け皿があることを自由と云うのだと思うのです。だから本当は自由でかつ平和と云うのはなかなか大変なことなのです。
私は文化の多様性は精神疾患さえ癒す?のだと信じます。
日本人はあまりこれは上手じゃないかも。多様性じゃなくてすぐ塗り替えや切り替えにしてしまう。
だから明治維新でも失ったものは沢山あったと思いますよ。