金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

法楽としての諦縁度の話

護摩など焚くと諦縁度というのを諸々の天尊に唱えます。
これは「法楽」と云って天尊に仏法を聞いていただくわけですね。
諦縁度と云うのは略して言うわけでつまり四諦、十二因縁、六度ですね。
これらはそれぞれ別なものですが、どれも仏教の基本的な教えとされています。
四諦と云うのは苦集滅道(クジュウメツドウと読む)のこと。つまり世の中は苦である。それは五蘊の集積とそれに対する煩悩にによる。そこには煩悩の消滅が必要で、そのためには仏道を歩むのだというのがそれです。
12因縁は私たちの命の展開をしめしているものです。根本的には無明があり、そこからカルマが生まれ、カルマは我々のもととなる新たな識を形成し、その識はものの分別認識を生み、それらは五官や心を通し、接触して、我々に影響する。そこに好悪が生まれ、取捨選択が生まれる。それにより生存は展開し、やがて老いて死する。この繰り返し。
でもってこれを止めて涅槃に入るというのが原点的な意味です。
対するに六度と云うのは六波羅蜜ともいいまして、大乗仏教の修行法です。
まず、命あるものを愛し育む心と行動が原点的に必要です。
次に戒律。あるべき規範を身につける。
そして仏道修行は倦まずたゆまず。さらにいやなことやつらい事にも耐えていかねば成就しません。(何でもそうですよね。)
止観(禅)や行法による精神活動の涵養をする。
そしてそこで得た智慧を活用するのが智慧です。
実は大乗仏教上座部的な涅槃には入りませんから、これらは並べて唱えられても思想背景は別々です。
昔はザックリと四諦八正道は声聞の修行法。十二因縁は縁覚の修行法。
六度は菩薩の修行法と云われてきましたが、四諦八正道がどのように実践されたのか。
日本は大乗の国、声聞縁覚などの二乗、三乗の教えなんてと従来日本では重要視してきませんでした。
例えば十二因縁の瞑想の具体的なやりかたはほとんど知られていないようです。たぶん上座部仏教を修行するとあるのでしょうが、歴史的には日本ではこれらは具体的に実践する方法が明確ではありませんでした。
特に日本天台などでは小乗戒はこれを捨てるという立場ですから、そうなるとこの四諦、八正道、十二因縁は従来的な意味ではなく別な意味合いを持っていることが推測されます。
今は単に通仏教的な教えのように言っているのでしょうがそれでは大乗仏教における四諦、十二因縁の本当の意味が明確ではないように感じます。
特に大乗仏教の至極である密教においてもこれが唱えられるというのは単に天尊に仏教を説いて聞かすというにはあまりにお粗末な説明と思います。
大体、諦縁度は般若心経とセットですが般若心経は苦集滅道も無しと断じておりますし、抑々が四諦、十二因縁のアンチテーゼのような般若心経がそこに入っているのはいささか驚きです。
そこのところの研究は必要でしょう。

お粗末な頭で考えるにこれは一口に天尊と云っても下は阿修羅、龍神から梵天帝釈まで機根は色々あるわけです。
天部には広く、権実二類の天と云ってすでに仏教の真理に目覚めた存在もいれば荒々しい神霊もいる。鬼や怪獣のようなものまでいる。
だから仏法と云っても理解が等しいかどうかはわかりません。
思うにその機根にあったものを取捨選択できるように色々なレヴェルをお唱えするのでしょうかね?
あまりいい説明ではないかもしれませんが、今私が思うにはそんなところかな。
一般的には天は執着が強いのでまずこれらで空理を説くのだということになっています。しかし、上座部的な空と大乗的空では違うのですがそこはザックリでいいのでしょうかね・・・。