金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

怒りは大事な感情です

痛ましいフランスのテロ事件。
そんななか大事な人が殺されたけどテロリストを恨まないと話して話題になった男性がいますね。
この話。仏教的にもグッドと思う人も多いでしょう。
この方がどういうつもりで言われているのかフランス語が判らない私にはなんともいえません。
なにか宗教やヒューマニズム哲学のような思想背景がとあるのか、ないのか、それともこの方独自の考えなのかも・・・。
私はこの方の心がどこにあってそういわれたのか判りません。
 
ですからこの方の話をするのではないのですがただ、それを聞いて私が今回思うのは「怒り」ということです。
結論的に言えば私は怒りは大事な感情だと思います。
怒りは三毒の煩悩の筆頭ですが、さりとて私はもし煩悩を根絶してしまうならば人間を辞めなくてはいけないと思っています。
煩悩は必ずしも起こらぬことが大事なのではありません
こんな話があります。
釈尊の教団に性欲やみがたく自ら男根を切り落とした比丘がいましたが、この人は褒められるどころか教団を追放されました。大きな勘違いをしていたのでしょう。
私は煩悩はお掃除のようにケアしていく・・・
だからこそ「煩悩無尽誓願断」が四弘誓願にあるのではないかと思うのです・
怒ることも、欲しいものを求めることも、愚かささえ完全に手放してしまえばそれは生きた人間ではないのではないでしょうか?
では煩悩はどうするの?
煩悩は我々が生活していれば出てくるごみのようなもの。逆にそれがあるということが生きている証拠です。
糞も尿もしない、排泄しない生き物はいないでしょう。
認識してこそ手放しもできる。
でも簡単に処理できるものばかりではないはず。必要なものだってあるはずです。
ですからこんな酷い目にあったけど少しも恨んでいないなどという話を訊いても私は手放しで素晴らしいとは思えません。
何故なら瞋りを封じることで大事なものを殺してしまう場合があるからです。

逆に言えば本当は「酷い目にあった」という認識があるだけで充分怒りなの

す。

だから実はそこには大きな矛盾が潜んでいます。
これ見落としちゃダメです。
その怒りは顕わにするかしないか・はまた別問題ですが自らの怒りを認識することは大事です。
そうでないと煩悩の処理はできません。
さらにあえていうなら不正や酷いことが行われていればそれを怒らなくてはいけないのだと思うのです。
我慢すればいいというのは社会を変えないでしょう。
無論、灰身滅智を求める人はそれでいいのかもしれません。

例えばどんなに労働条件が酷くてもモノ言わずニコニコ働くのがいいでしょうか?
酷いことは酷いのだとブラックな企業に突き付けなくては社会は変わりません。
怒らない人は怒れない人であってはまずいと思います。
そういう我慢する人を全く偉いとは思いません。
可哀そうだとは思います。
人は強い罪悪感が心の中に眠っていたり、自己価値が極めて低いとそうなります。
今一つは人はあまりに酷い目にあって現実を正面から認識できなくなる場合があるのです。
例の男性は場合、どうなのかは知りませんがテロなどの惨事では遺族にそういうことが起きてまったく不思議ではありません。
心理学的事実なのです。
これは心理的な「逃避」です。
以前ペットが死んでしまった独り暮らしの御老人が、ずっとそのペットが生きているんだといい続けた事例を身近に知っています。
その方は突然倒れて入院してしまい、エサがもらえないペットは餓死してしまったのです。その後もその方は長い間ペットは生きていると人に云い続けました。
当然ですが子供さんや恋人が突然死んでしまってそうなる人も多いです。
いたましいことです。
それをしたのがテロリストです。今回のテロ。
「断じて許すまじ!」
私は人類の一人として怒りの炎を燃やし続けたいと思います。