金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

摩利支天2

摩利支天さんの秘法は長々したものは正規の十八道立てを除くとあまりありません。
いつでもできるものが多い。忍者がやったくらいですからね。
若いころ四国遍路に徒歩で行きました。
場合によっては足を痛めてどうしても次の宿場町に行かれない。
遍路宿はどこでもあるわけじゃない。徒歩やバスツアーでお遍路行って丁度このあたりで日暮れというところに大体ある訳です。
だから徒歩で宿のないところで日没だと野宿ですね。野宿も続けると慣れてきますが最初はつらい。体中痛いですね。
布団で寝られるありがたみがよくわかります。
「やった。お布団だ~!」みたいになる。
そこでどうにもならないと摩利支天さんを呼ぶわけです。
この法を修すると壱日千里を行くと云う摩利支天の秘法
するとどうなるのかしら?と思っていたら車が来て乗せてくれるようなことがおきます。
それでちゃんと宿に入るわけです。
でもこれって江戸時代なんかならどうなったのだろうと思う。

遍路宿は昔はいきなりでも泊めてくれたけど今はおおむね予約のようだし、修行だから豪華な料理は食べないので素泊まりを頼むのだけど素泊まりだと嫌がられるケースも・・・。まあ、あちら様も商売だからね。
今でも車が混んでいると助手席でこれをする。そうするとかなりの渋滞でも三十分もすると大方スイスイ行きます。
此れって理屈から言うと変ですがじっさいそうなる。
逆に言えばシンクロしている結果としてこれやっているのかしら?と思うくらいです。
そういうわけで何でも早いのが摩利支天さん。
これは身をもって何度も体験しています。
ですから私も縁あって一応、天部は聖天さんの行をさせて頂いていますが、昔は霊験の強さから云えば摩利支天、もしくはご縁から考えれば宇賀弁天の浴酒行者になりたいと思っていました。

以前、摩利支天さんで「いじめ退散」というのを御祈祷で提供したら文句が出た。「いじめ退散」とはなにごとか!
ということである本山の内局で文句が出たらしい。とっても偉い人らしく出版社は大慌て。
此れだからきれいごとだけ言って胡坐かいている坊主なんて信用ならない。
子供の世界は一種の無法地帯です。
どんなにひどいか知らないんだね。おめでたいね。
「文句があるなら直接私にどうぞ」といったけどそれきり。
どこの誰だか存じませんが先様は結構な御本山のエライ方らしいから相手にとって不足ナシです。
いってみれば当時【今もそうだけど】こっちは一介の行者風情です。
でも位が偉い坊さんでも実質は偉いとかぎらないので私は何とも思いません。
そういう坊さんの権威主義は山ほど見てきたけどハッキリ言ってあんまり意味ないと思います。
いまどき、へへーっと土下座するような身分制度が横行しているのは坊主の世界くらいじゃないでしょうか?
口では人はどんな人でも人殺しでも全て皆平等だとか、権威主義につながるので国歌斉唱反対、国旗掲揚反対、人権くらい大事なものはないなどと云いながら人を人とも思わぬかび臭い権威主義の坊さんがゴロゴロ。
私もかなりの保守的人間で皇室も尊崇していますし、国家も国旗も至って大事と思いますがここは明確に違うと思います。
昔、小僧の頃ある偉いお坊さんの挨拶に行って御付きの方から「直接御顔を見てはならぬ。無礼であるぞよ!」といわれました。皆へへーッと平伏。
そういう人の前では自分の価値なんてほとんどないみたいにしないといけないのでしょうか?なにか勘違いしてるよね。
マア、そのお坊さんはスゴイにはすごい方なのだけど宗教家の偉さってそういう殿さまや王様なんかとはまた次元が全く違うのではないでしょうか?
仏様の偉さも同じ。礼拝はしますが王様や御殿様に対するようにひれ伏して恐懼するようなものじゃないですよね。
私は王様や元首、いわゆる偉い身分の人を認めないわけではありません。
しかしこういう方々の偉さと宗教家の偉さとはまた違うものです。
偉い宗教家は必ず民衆にも交わっています。
おとぎ話の御姫さまみたいに高い象牙の塔に住んでいる存在ではないでしょう。
此処が大事です。
第一、どなたの内にもその尊い御仏はいるのですからね。
唯仏与仏及能究尽諸法実相です。