金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

善き人になりたい。でもそうなるには・・・

ある聖天信仰に悩む方のお手紙です。
はじめ聖天信仰していたけど、拝み始めると逆にいい事が無いのでやめましたというお話です。
でも完全にはやめきれないでまたしばらくすると始めるのだけど・・・・のくりかえし。
この方は結婚したい。恋人がほしい!というのがそのご祈願の様ですが、孤独なので周囲のカップルを見るとついつい淋しさで面白くない思いにとらわれる。
「クソー!なんで自分だけが…」という辛い思いなんでしょうね。
マア・・わからなくはありません。
自分だって周囲のカップルを祝福したいんです。でも幸せになれないからできない。私だって善人になりたいのだから、恋人の一人くらいくれたっていいんじゃないの・・・。決して贅沢な願いじゃないでしょう。なのに聖天様は何でかなえてくれないのでしょうか!ということらしい。
勿論、普通の理屈の上ではそうなのかも知れない。
でもこれはどうなのかな。
人間の幸福にランクはありません。例えばとんでもないお金持ちでも孤独な人はいる。お金なんて生活できればいいの。パートナーが欲しいという当たり前の幸せが何故叶わないの?という人もいます。
天下に知れ渡るほどの技能のあるスポーツマンや芸能人、アーチストでもそういう人いますね。何でもかんでも手に入れた豊臣秀吉、子孫運だけはダメでした。
平安の世を「望月のかけたることもなき」と栄華を誇った藤原道長も人生後半は急転直下、衰微していきました。
モテてモテて困るくらいだけど生活はキュウキュウですという人もいます。色男、金と力はなかりけり。女性だってそういう人います。
「此れが叶うくらいならもっと当たり前のことはかなえてくれてもいいのではないか!」というのはあくまで人間的な感覚の上での話。
たとえ天下に名声が知れ渡るほどでも、孤独なお方なんてザラです。
たとえ満月のような幸せを求めてもそれはすぐに欠けていく。
「別に難しい事じゃないんです。普通の幸せで良いからください。誰か寄り添う人がいれば幸せなんです。」ということなんでしょうけど、あいにくその「普通の幸せ」というのが「メニュー」に無いというのが本当のところではないでしょうか?
人に依っては名声は簡単でもお金が難しい。お金は簡単だけど愛は手に入らないということだって普通にある。全部ない人もいますよ。
だとしたら、あなたに「あるもの」はなんでしょうか。「無いもの」にフォーカスしないで「あるもの」を見回してみましょう。それがあなたの幸せです。
ほかにはありません。
普通の幸せというけど実は「普通の幸せ」なんて本当はどこにも存在しないんです。
私はそう思います。
あるとすればそれは貴方だけの幸せのスタイルです。人は人。
貴方は貴方です。
自分の身の丈に合った幸せだけが身に着くのです。
でもそれが判るのは結構、人生修行がいるのかも。
梅に桜はさきません。
でも、どうしても手に入れたいものが諦められないも結構でしょう。
諦めろといって諦められるならそれを執着とまではいいませんよね。
諦めないでもいいんです。簡単には諦めないでください。
だって諦められ無いものは仕方ない。
そうでしょ。
聖天でも荼枳尼天でも何でも拝んでみるのもいいでしょう。百歩譲れば信仰なんて全部やめてしまうのもいいでしょう。
目的志向の信仰なんてどうせ偽物ですからやめても惜しくはありません。
聖天、荼吉尼天、摩利支天、宇賀神、愛染明王よさ気な神様はいくらでもいますけど、でも大概そういう強力な神仏拝んで叶わないことは別な神さんでも駄目なんですね。誓願が異なる場合は期待できますけど・・・。
だからそういう発想で○○供してほしいなんていう依頼はすべて断るわけです。正直無駄ですから。

よその聖天さんで長年拝んで叶わない。そのお寺が御祈祷らしい御祈祷していないなら別だけど毎月浴油もきちんとして自分も一生懸命拝んでいます。
それでもだめなら、うち来たって大概駄目ですよ。
よそいかないでそこの聖天様信仰してください。本当はそこからが信仰です。
何様だから叶って何様だからダメじゃなく、自分がそもそも駄目なんです。
手持ちの札が無いんです。
見ていてそう思う。
「そこをなんとかするのが聖天様だろう」と思うでしょうけど、本当に何一つ叶わない事が無いなら仏教の教えはいらないですよね。

叶わないこともあるから人は仏の教えが必要なんです。苦の娑婆ですから。もし本当に何でも叶うと思えばその心は仏典の大自在天と同じになる。
つまり増上慢。どこまで行っても足る事が無く感謝はできない。
「ない幸せ」にフォーカスするけど「ある幸せ」には目がいかない。
人生の成功者だと思われている人でそういう人は山ほどいますが必ず壁にぶち当たる。
譬えるなら降三世明王に踏まれてしまうわけです。
諦めるとはあきらかにすること。
言べんに帝と書いて諦める。
皇帝は天下を治めるために大局的な目が必要です。
だから諦めるべきものは諦める。
それもあなたが決めること。
そして人生というものを治めるためにそれが必要な時は皇帝でなくてもどんな人にも訪れます。
「全ての物事に必ず解決策があるわけではない。」
此れも大事な諦観だと思うのですがどうでしょう。