金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

煩悩


我々は気づいた時にはもうこの世で生きていたわけです。
別に望んだわけでも無いけども、生まれたからには生きると言う方向性をもって存在している。
あらゆる生物がその方向性をもって生命を育む。
その生命はよりこの世界で適応する為に競って生きる。そのように自然、宇宙の法則そのものによって
あらしめられています。
宇宙というかこの世の法、自然の摂理そのものに煩悩が宿っている。
というよりも、より良く生存したいという欲求か。
その欲求に対して、取り巻いている現実との違いに煩悶することが煩悩か。
そうだとすると煩悩は幸か不幸か頭脳を発達させた人類にしかないのかもしれません。
他の動植物が生存する為の欲求に対して、満たされない思いに嘆いてるかはわからりません。
不平不満はないのではないでしょうか。生まれたら何も言わずに生きて死んでゆく。
その知性がないからだと言う考えもあるかもしれませんが、その知性を得た事で食物連鎖のピラミッドの頂点に君臨する
ことになった人間は、その知性によって生きることに思い煩うようになったと言えるかも知れません。
ツケがまわったと言う事かも知れない。
生存に対する様々な欲求自体がなくなる事は多分ないでしょう。空腹により食事するのも排泄するのも恋愛し結婚し
子孫を残したいと思うのも。自然や宇宙の方向性がそうなっていると言う事なのでありましょう。
だから仏教の命題のひとつは、如何にその欲求と現実との折り合いを付けていくかと言う事です多分。

(フ~ム・・・生きることは即ち悩むこと・・・かもね。(=^・^=))