金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

金剛般若経に寄せて


金剛般若経にはよく使われる言葉として「諸の衆生は複た我相も人相も衆生相も寿者相もなく、法相もなく亦非法相もなし。」というのがあります。宇賀神浴酒の最後の座で金剛経をあげました。
濱地天松居士はよく宇賀神様にもこれを挙げていたそうですから。
ちなみに初座では最勝王経弁才天女品、中座では般若理趣分をあげました。
宇賀神様は般若経がお好きなようです。
お酒も般若湯というしね。

さて、ここの意味ですが長いこと釈然とわからなかったんですね。昔から講義を受けてきたのに、ただ漠然と頭で要は空なんだくらいしか理解していませんでしたが・・・
でも、なるほどこれはこの間言った「人生は比較できない」というのと同じことだなと思います。

つまり、我が相があれば他者の相がある。人としての相があるなら違う生き物の相もある。衆生としての相があるなら仏としての相もある。寿者、すなわち幸福な人間としての相もあれば、不幸な人間の相もある・・・。

でも幸福といったって同じ国でも中国の山奥で一年に一回豚を焼いて食べられるのが最高の幸福な人もいれば、上海や香港で株で大儲け、金銀財宝を山と積んで、やることと言ったら夜ごとのパーティくらい。でも不満や不幸のなかに生きている人もある。そして恵まれた先進国の方が自殺者は多いようです。日本だってそうですね。
それに比べて絶えず空襲で焼夷弾が降っているような国では自殺はあまりないみたい。
 
仏教的に言うならそういう対立相は本当は関係ないんだということですね。
なぜ対立相は関係ないの?本当は人生は比較できないからです。
それはこの前に申し上げました。
人生は自分の業の姿。創造主だの神様が作ったのでも何でもない。業自体が自分ですから、自分の業じゃなく、業こそが自分そのものです。
カルマが服を着て歩いているだけ。
自分のカルマ以外自分はない。
だからどんなに不幸でも神様恨んでも無駄なのです。
世の中も自分のカルマの一部でしかない。
自分が体験する世の中はすべてカルマの投影です。
その投影の中でまた新たなカルマがいいにせよ悪いにせよできてくる。
だから他者との比較は意味ないのです。
こういうのはただ物差しとしてだけある。認識の手引きとして存在する。まさに物差しです。1センチメートルだの1グラムだのとうのはあるけど、それは実態としてあるわけじゃない。目安としてあるだけということでしょう。
思うに最後の「法相もなく非法相もなし」というのも同でしょう。
これは仏教だとか仏教でないとかはすべて自分のうちにあること。
宗教論争などというのは本当は自分の内側でしか起きていないのですね。
だから今日もしっかり「自分」を生きましょうというのが金剛経のこのメッセージかな?と思います。

ああ、それからほとんどの方にはどうでもいいような話で恐縮ですが、この宇賀神浴油の最中に司法書士の先生からメッセージが。
宗教法人の設立は神奈川でなく、長野になりそうです。
場所は別荘地なのだけど寺院は許可でそうとの話。宇賀神浴油供のさなかにそう言う話が届くところを見るとどうやら、この件に関しては言い出しっぺの弁天様の管轄の様です。