人は誰でも寂しい時、いたたまれない時があります。そんな時に神仏を思うのもまた自然なことですが…でも泣きつけばよしよしと助けてくれるほど簡単じゃない。
むしろまずほとんど助からないんです。そういう時は。
なぜならそこが踏ん張りどころだからです。
そこで余計な手助けはいらないというのが神仏のお考え
泣きつくのと信仰とは違います。
信仰者は自己を見据えてこそです。
苦しんでいる。のたうち回っている。そして、その己をじっと見据える目と心がないといけない。
お参り熱心な若い方。
お加持してほしいというのでお加持したらなんと蛇が出てきた。
なんか知り合いの振りしているんだけど変なのですね。
盛んにぺろぺろ舌を出し入れしている。
そんなことってあるの?本当に蛇なの?って思うでしょ。
私もそう思う。本当のとこはわからない。
でも少なくとも蛇のイメージを潜在意識は選択して表出しているということは言える。
少なくとも内部で非常に低い意識と結びついている。今、そういう状態ですということです。
ご本人はいろんな意味で寂しい。
だからその相手はどんなでもよくなっているということなんですね。
実際に爬虫類ファンの人が爬虫類の「蛇」を飼育して心の慰めにしているのとは違うんですね。
別にそれは問題ない。
「蛇」だから低いんじゃなく、この場合は低い意識のパターンとして「蛇」というパタ-ンを選んでいるだけといった方がいい。
ややこしい話ですみません。余計わかんないか。
まあ、さみしいなら慰めてやろうかと寄ってくるものにはこの世だろうがあの世だろうがろくなもんはいません。
寂しさを抱えて生きる。どんな人にも必要な心。多くの人に囲まれていても寂しさは寂しさです。関係ないんですね。
ただ、神仏によりかからずに見てていただく心。
毅然と生きる。それが信仰に必須な心です。