金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

自我偈の聖天信仰

小僧時代「法華経の自我偈に仏道修行の一番大事なところが出ているが、あんた、それがわかるかい?」と師匠に聞かれた。
正直いって法華経の行法は「観普賢菩薩行法経」による「法華三昧」だと思っていたから「懺悔」とか「六根清浄」とかになりそうですが「自我偈」ですか?
「ウ~ン…わかりません。」と言ったら「柔和質直者即皆見我身だよ。」と指摘された。
下し読むと「柔和質直なるものは皆我が身にまみえることをえん。」
つまり柔和と正直が大事。それが本当に仏に逢える条件。もう一つは「不惜身命」だといわれた。
「身命を惜しまず。」これは少々厳しいね。
身命は惜しまないわけにもいかないけど…お金のことや生活のことを愚痴ると即座に「衣食の中に道心なし。」といわれておしまいでした。
生活のことを先にすればそこに仏道はなくなる。仏道を求めればおのずから生活はできるという意味。

お金のことはそういうわけでそれ以上言えば、今度は「愚痴になる」と言われるので一切いえない。
お金と言えば学生時代、余裕の無いお金集めて、集団でお寺に行ったその先で「皆様。今日はありがたかったからどうでしょう。五千円づつ寄付しましょうよ。」なんて声がかかって本当に帰りのお金がないかもしれない。どうしよう…でもぎりぎりなんとか助かるというようなこともありました。


それである時、四国遍路勧められました。この話はまた詳しい話をいつかするけど。面白い話一杯です。
この修行では「衣食の中に道心なし」で終いには落ちているものすら食べた。お金がないんじゃないです。同行さんが路銀が尽きた。
だから同行二人ですから自分だけ宿屋に泊まって食事てなんてことができない。そういうこともあった。
慈眼寺の穴禅定。
狭い岩穴を進んで修行する。
番外霊場だけど、絶対にここに行けと言う師匠の命令。
お金のことばかり心配していたらなんと!どうも穴のなかで財布落としたらしい
それでもう一度探した。
こだわりや欲の深い人はつかえて動けなくなりますという穴禅定。
一回目はスルスルだったけど、こういう心で入ったら彼方此方つかえて進むのも困難を極める有様でした。
でもどうしても出てこないんです。
案内の人も気の毒そうな顔してくれました。
それで同行さんから「おい、これからどうする?」と聞かれた。遍路はいまだ徳島県、始まったばかりです。「乞食してでも行きます!}といって着替えの場所まで言ったら、なんと!…ちゃんと財布が荷物の真上においてある。
誰も来ないんですよ。ほかには。
「もっていくの忘れた?」とんでもない。もうお金だけは大事と思っていたからね。
だから、これはお大師様から戒め受けたと思いました。お金のことをお大師様から教えてもらった。有難かった!!
こうした体験の積み重ねから「道心の中に衣食あり」は本当に本当だと思っています。だからお金のことはあんまり心配しません。
勿論そんなお金持ちじゃないけどね。
そうはいっても別に悟っているとか偉いわけじゃないですよ。
仏様任せの植木等みたいなもの「そのうち、なんとかなるだろう~♪」てな感じはある。

四国はそういうところ。師匠はそれで信仰を直に感じなさいと言うことでした。

弟子は師匠のお手伝いしますけど、「あんな小僧なんかの作った有難くもない御札など拝めるか!」と寺にたたき返されたこともあったと聞きます。
それ聞いても勿論怒れないです。心が入っていなかった。自分に徳がないのだと思うのみです。是、当然。
「この梵字は雑だから駄目!」と書いた100枚ばかり書いたところで内符を目の前で師匠に引き裂かれもした。怒りはしないけどそういう厳しいことは平然とされた方です。
勿論これも自分が悪いのだから怒れるわけがない。
わたしたちだけでなく「怒るな。愚痴るな。貪るな。素直で正直」が大事と皆に教えておられた。

師匠は柔和な顔の人でした。実際、𠮟ることは多々あったけど怒りはしなかった。
特に「行者は不用意に怒ったりすると人が死ぬかもしれないから・・・。」
それが怖いといわれた。
子供のころからそういうのを見てきた。行者さんはきつい人多いよね。
特に修験はそう。
それで怒りの業作って死にきれない行者をたくさん見てきたそうです。
私は逆に実際にわが師が怒らなくても、師匠に酷い仕打ちや暴言吐いてしてその後まもなくえらいことになった人達を何人もみてきた。
勿論、厳密にはそのせいかどうかは知らないですよ。
私がそう信じているだけです。
で、師匠はいつも「私が怒らなくても聖天様がお怒りになるのだからいいのだ。ほっておけ。本尊任せだ。」といっていた。
だからかなりひどい裏切り者もいた。嘘つきや恩しらずもいた。
弟子のくせに師匠の晋山を邪魔して誹謗中傷する外道もいた。
でもそんなときに師は実は相当に術ができたけど「おのれ!目に物見せてくれる。」なんて絶対にやらなかったんですね。
だから「怒るな。愚痴るな。貪るな。素直で正直」がそれが天台の大切な教えだと言っていたのは身から出た言葉。
ただのスローガンじゃないから重みが違う。
当院みたいに在家の五戒とかじゃなく、まあ、このほうがわかりやすいですね。今でも師匠のお寺はこれです。
もし破ると本当に夜は寝られなかった。それで布団から起きて口に出して懺悔すると寝られた。そういう不思議があった。
「それはそういう暗示だよね」という人は信仰を論ずる場にいるべきじゃないね。

信者でさえそうなのだから特に天部の行者は「怒る」のは絶対ダメと言われていた。
「怒ったら、お前、ワンテンポ置いてその言葉を飲み込め」といわれた。「口に出さなくても怒ればおんなじことでしょう?」というとそれは明確に「違う」と言われました。
口に出すとどんどんエスカレートするので絶対にダメ。
まあ、実際、師匠も怒鳴るとかはなかったですね。
怖かったけど。
この怖いというのはこちらに「敬意」があるから怖いんです。
「敬意」がなければ怖いもへちまもないでしょう。
ライオンや虎じゃないから。

ときどき、俺は怖いものなんて何もないと威張っていう人いるけど…私に言わせればそうなっちゃ人間もうおしまいだね。
「そう、それはすごいですね。」とかいってニコニコ聞いてはいるけど。

私なんかもう本気で叱ってくれる師匠はだあれもいない。
そういう有難い人はみな死んじゃった。( ノД`)シクシク…
寂しいけど…いずれ誰でもそうなるね。