金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

それがそのまま説法

私自身、今まで困りぬいた時こそ「なにかしら飯縄様のお言葉が欲しい」と思うのですけどそういう時ほど何もない。
まるきり涼しい顔して羽団扇であおいでいるような調子。
日頃物申すならこのような時ほど…と思うけどね。
「それって飯縄様とかなんとか言っても所詮は自分の意識を分離しているからできる一人芝居で、あんたが本当に窮したらそんな田舎芝居みたいなものはお終いだよね。何も言葉がないのもその証拠では?」という考えもあるよね。
それね。全然否定しません。そうかもしれません。…でもそうではないかもしれません。

…そんなこと思っていたら、鼻で笑うように「汝のそれ(困っている状態)がそのまま説法ではないか?ほかに何がある?」

自分のことは自分でしろ!が飯縄様の基本。
助けるのは…本当に助力であり、まるきりの救いという感じじゃない。
救えだと、じゃあお前自身はそれでなにをするのだ。
助けはあくまで助けじゃ。ことをするのは汝の役目。それで沢山だろう。と言われる。
「我はこれ娑婆有縁の神なり。極楽浄土の弥陀にては非ず。汝も娑婆忍土の人ならんや?娑婆はどこまでも娑婆なるぞ。」ともいわれたことがあります。

こういうのが来ると「こりゃ、やはり飯縄様だな、到底私の意識なんかでない。」と思ってしまいます。
第一、こういうところはいかにも飯縄様らしいおっしゃりようだと感動すらしてしまうのです。