金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ペットの葬儀を考える

ペットの葬儀のあり方についてお尋ねがありました。専門の僧侶の方のおたずねであり、それに携わることの少ない私如きが教えるという立場でものは申せませんが、一応現在の私の思うことを意見交換的に述べさせて頂きたいと思います。


さて、仏教では動物は畜生道と阿修羅道に次いで我々より二段階低い境涯にあります。それでも餓鬼等よりは境涯的に上です。


餓鬼は主に人間から死後に転落する世界ですが、知能的にはいかにあれ愚痴の鳥獣より下位にあります。地獄もそうですね。
つまり六道とは境涯の別であり、高度な知的生き物であるとかないとかは関係ないのです。
先日、我が弟子が海外の方から仏教は動物を下に見るので…という批判を頂いたと聞きました。
これは正確には間違いです。
境涯を下には見ても存在自体扱いを下にするという差別はないのです。そういう意味ではキリスト教の方がずっと下に見ます。なにせ人間の為に彼らは存在しているという設定ですから。
ただし、仏教を修行したり受け取ることではご存知の通り、八難所の一つとします。仏教ではこれを以て低い境涯だから低く扱うのが妥当なのだとはしません。
基本的な命の考え方に六道の差異はないのです。
一切衆生という言葉で言えば生き物は一区切りに同等であります。
一応、「華厳経」などで殺生には三種の別ありとして上は聖者、阿羅漢など中は人間一般、下は動物としております。
考えるにこれは慈愛の深いものを殺すほど罪は重いということでしょう。
それはそれで理にかなっていると思います。
この説ではアリなどを殺すよりは愛情を表現できる犬などを殺す方が罪は重いということになります。
「地蔵菩薩本願経」では魚の卵を食べることは何千という数の多大な殺生で地獄に堕ちる業因になると説きますが、ここには同じ仏典でも考えに差違があります。「地蔵菩薩本願経」は中国仏教思想が多分に盛り込まれていて、その意味ではインド仏教より厳格かもしれません。
私は前者の華厳経の立ち場でものを考えております。
もっと言えば私は「衆生」というより「有情」と言った方がいいと思います。つまり、情けある存在です。
生き物というなら菜っ葉もキノコも生き物ですが、仏教で救済の対象というのは一応「有情」という感情を持つ存在が主であります。従って感情を持たない植物は摂取しても殺生とは言いません。
例えば昆虫なども知的な存在ではないかもしれませんが、捕まえれば抗うのであり、頭脳活動か否かは措いてこれは一種の意思表示と考えていいと思います。


さてこうした昆虫のような存在においても葬儀ということを考える人もあるにはあります。
庭で虫が死んでいたらお経を唱えるという情け深い人もいるでしょう。
虫がお経を聞いて理解するか否かはどうか疑問ですが、「善住宝楼閣秘密陀羅尼」においては唱えるにアリや蛾もこれを救済して漏らさないと言います。
つまり我々の供養の想いは五官を超えて蔵敷の領域に異熟として伝わるのだということだと思うのです。
頭脳のことを言うなら人間のお葬式でもその脳はもう死んでいますから機能はしておりません。ですから読経は頭脳ではなく識体にアクセスするのだと思います。
本人のいないところでご祈祷するのも原理は同じでしょう。


ですから知能とか頭脳の問題ではないと思います。
この意味では生前全く仏道に関心のない方の葬儀も基本的に八男所の衆生と同じでしょう。
つまり識体にむかって仏縁を作るべきく法施するのです。
とりわけ畜生以下の三悪童は仏道修行が難しいので、半ば一方的に引き上げるのに近いと思います。
天台衆など聖道門の葬儀は戒を授け仏弟子として故人を迎えます。
しかし、このような葬儀は動物にはどういう意味を持つのかいささか疑問に思います。
戒は動物には無用なものが多いからです。
例えば不妄語などもそうですし、不邪淫、不偸盗もそうでしょう。これらは人間の様な社会があってこそ成立する戒です。
敢えて動物の戒を言うなら同種間の不殺生くらいです。
まして、定まった墓所や位牌なども必要なのかどうかは動物の側から言えば疑問だと思うのです。
ただ、否定できないのは、むしろそのペットの主人であった人が慈愛の念から法施を行う対象としては位牌なども大切かもしれません。法施を行うこと自体が仏道修行だからです。


私的には動物においては大乗経典の読誦以上に密教の効能に期待するものです。
昔、浄土宗の名僧が「死者の供養に最もいいのは?」と聞かれて「宝函印陀羅尼」や「光明真言」を挙げ、「口称念仏」はあえてあげませんでした。
弟子たちが何故かといぶかしがるとかの僧侶は「密教の陀羅尼は故人の回向に唱えるべきものはあるが、浄土三部経のどこにも故人に南無阿弥陀仏と唱えよとは言っていないから…。」と答えたと言います。
つまり基本的に考えれば念仏は本人が唱えるべき仏道修行なのです。
信仰も同じことでしょう。自分が信仰が無ければ無意味ですね。


ですから失礼ながら人間であっても生前に信仰が全くない方の葬儀は動物の供養とすべきことは基本的に全く同じであると考えます。


これにより、拙寺では歓喜天供をする慣例で葬儀はこれをしませんが、供養という名目で仏縁を作るため動物に主に陀羅尼を唱える供養の法儀は致しております。
ここに密教のほかにない勝れた特長があると思います。法華経なども読誦大乗の功徳はあれ、基本的に五種の供養あってこそと思いますし、
極楽浄土に畜類はいないといいますから六字念仏を手向ければ直ちに極楽の衆生となるのかどうかという教学上の疑問が残ります。

あまり、確たるまとまりのない話で恐縮ですが現在の私においては一応かくのごとくです。
    
         ※写真は供養の馬頭様とニャンコ像
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