金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

記子の教え


うちの信者さんがあるお山の入奉修行に混ぜてもらった時のことだそうです。
そこで行の前だか後だかわからないけど、雑談で「調伏」についての話が出た。
その話を信者にしてくれのは私も知っているそこの最古参の行者さん。
そうしたらその方の上座にいた師匠が「そのような話はやめておきなさい。」と一言いったそうです。
そうしたらその行者さんは、即座に話を止めて師匠の前に手をついて平謝りに謝ったそうです。
この行者さんも師匠も両方、よく知っている人なのですが大したものですね。
別にこの師匠はいたって柔和な方ですし、かたやお弟子さんは武術を多年修行した猛者です。
もしも、暴れだしたらどうも止められない。
でもそんな人が師匠が「いけない。」と言われればすぐにやめる。改める。
「何故なんだ?」とか。「どうしていけないの?」がない。それでなくては弟子師匠とは言えません。
まして異を唱える、文句を言うなどありえない。
この行者さんは結構「やんちゃ」で鳴らした人.。
なかなかの拗ね者ですが師匠には大変素直です。

でもね、そうでないなら師匠の存在意義はない。
意味がないし、まず師匠を持つ資格がないですね。
人には誰でも怖い人が必要。
それが師匠です。
たとえ師匠を自分が能力において超えることがあっても師匠は師匠です。

チベットのラマ、ニチャンリンポチェがおっしゃったことに念誦の折に数珠の記子を超えてはいけない。
これは日本でも念誦の常識ですが、リンポチェは「記子はグルつまり師匠だから超えてはならないのだ。」といわれるのです。
自分のグルはどんどん遡ればグル・リンポチェ即ち蓮華生大師になる。
グルを蓮華生大師と同じように礼拝し、大切にする。
師を侮ることは祖師を侮ることとなる。究極においては仏を侮ることと同じこととなるのです。
これは日本でも同じことです。
師匠は怖くてなんぼ。怖いと言ってもやたら怒鳴るとか、酷く罰するとかじゃないですよ。
そうではなくこちらが恐懼の思いを致すのです。
自分が自分につける「重し」やストッパーが師匠です。
いさめてくれる人、怖い人は必要なんですね。
もし、修行者は誰も怖くないなら怖い人を求めなくてはいけない。
誰のためでもない。
修行者自身のために。
人は怖いものがなくなればおしまいです。
オレには怖いもなんて何もないなどとほざいているのは金があろうが地位があろうが幼稚でお粗末な思いあがった人物です。
私の師などは「師匠など目標であってはいけない。超えていくべきものだ。」と教えられましたが・・・いまだに師の足元にも至らない自分がいます。

もう亡くなられた師匠でも私には一番怖い人であることは今も少しも変わりません。
今年の12月は師匠が亡くなって17回忌です。
早いものですね・・・。