密教の中心は念誦。
だから一尊法は言い換えると○○尊念誦作法という。護摩だって浴油だって念誦の延長だ。いろいろな煩瑣な作法は皆、念誦の付属物だ。
「密教やりたい」といいながら日ごろロクロク念誦もしない者は真にやりたいものとは認められない。
要は密教の呪力や密教行者の呼称が欲しいだけだろう。
例えそうでも念誦から始まり念誦に終わるのが密教というもの。
念誦せずにいられない者こそまず最低限の条件だ。
しろと言って渋々するようでは非器である。
まして僧侶で祈願や法要がないかぎり一切登壇しないなどというのは問題外である。
私も絶えず念珠は持ち歩き外出時、電車の中などでは密かに数珠を繰るようにしています。
別に祈願などなくてもただ念誦するのでよい。
本尊と常にともにあろうとする心の中に真の修行はあると考える。