実は少しづつ私なりの心境が開けました。
一種の小さい悟りといってもいいと思うのです。
・・・それはなんのことはない。
「私はただの凡夫,それも一介の下愚の凡夫以外の何物でもないのだ」ということ。
とはいえ、何かがあったわけでもないのですが、最近になって如実にそう感じるようになった。
「なああんだ。ばかばかしい!」といわれるかもしれません。
「そんなのあなた以外はみなが知ってるよ」と嗤われそう。
実際そうでしょうね。そう思います。お恥ずかしいことです。
皆が知っていることを私もやっと認識できたというそれだけ。
でもこれが真実、私の60年間の妄夢なのです。自分で言うのもバカみたいですが誇大妄想が晴れた感じ。
小さいころから何か心のどこかで特別な存在になろうとしていた。
何か凄いものになる。
いつかドエライものになる。
そんな偉大な人物とは引き比べてはますます笑われますが動機は似たようなものですね。
どこかでそれが志というものであり、人としてそれがなすべきことだと思っていたんですね。
私は古い人間ですから「えらい人になってね」といわれて育てられた。
「えらい人」つまり行いの立派な世に有益な人になることはいまでも人として大事だと思っていますが、でもそれには実は特別な人になるという必要はないんですね。そこが間違い。
そう、世に知られぬ路傍の草のごとき人でも素晴らしい人、会えば感動を与える人は山ほどいることでしょう。志というものは他人様の目に見えても見えなくとも志なんですね。
思えばむしろ「陰徳」という言葉さえある。
私は生まれて60年たってやっとそこがうっすら見えてきたような感じです。
数々の密教行法を修し、山に登り、四国の野山を幾度と行脚し、経、陀羅
尼を積年そらんじてやっとそこ。
やっと普通の人の普通の考えレベルまでたどりついたようです。
仏道修行は…「煩悩の最たるものだ」と教えてくれた師匠の言葉がよみがえります。
遅まきながら、またそこからはじめないと。
「一代聖教尽き果てて南無阿弥陀仏ぞのこりけり」
というけど、真言をさておき弥陀の念仏はもっぱらには申さぬ身。
もとより妄念の凡夫なら
うちに以前一年ばかり来ていた人で「自分は偉大な天才なんです。それを周囲のクズどもはわかっちゃいない!」と駆け込んできては、いつも憤慨していた人がいましたが、見ているとややもすれば普通の常識も危うい。考え方も変。それでも敬意をもって接していましたが、ほかの信徒さんとトラブルがあって勝手に私から破門になったとか言われて、いずこかに消えていかれました。
思うに、この方は自分はえらい人物と思っているので些細なことも自分に対してはらうべき敬意や配慮ががないと受け取って怒るのでしょう。
失礼ながら極端な話こうなっては・・・。でも私も笑えないかも。
そう思っていると・・・飯縄様からは
「お前がそれがわかれば上出来だ。でかした。でかした!」と声なき笑い声をたて手を拍ってからかわれました。
たとえ私のようなものであっても愚か者には愚か者の悟りがあるのですね。ありがとうございます!本尊諸尊一切三宝