理由は灌頂を侮るような言葉が伝法方にあったからだそうです。
それで即やめてインドに行って放浪して、三年間ヨーガを研鑽し、戻ってきてから縁あってわが一門に入った人。
またこんな人もいました。私も手が空かず、本人もお金がいることがあって大変だということもあり、外来の大きい相談と御祈祷の仕事を譲ったのだけど、本人曰く。話をするうちに内容が今は祈祷する必要なしと考えたのであえて、その依頼は受けなかったという。
この人は実は宿曜を最初に奥までやった人ですので「ホームページ」で破門殺の計算まで出すようにしてはどうか?特に許可するが。といいましたが「いけません。術が軽くなります。それを出すことを仕事にしている人もいるし・・・」とのことでした。特別に許可してやろうとしてかえって説教されるようでは私もザマはありません。
ほかにも豊かなお寺から後住のオファーがあったけどにべもなく断った人など・・・
かくいう私もわが宿曜道を携帯電話のアプリにしたいという大きい企画の話もありましたが「そのようなことはいりません。」「なぜです?広まると思うけど」「そんなに広まらなくていいんです。もともと密教の一門ですから。」というようにバカなことでは決して人後に落ちません。
総じてわが門下で深奥まで行く人間は全くもって世渡り上手な人にあらず、むしろそういう人間から言わすとバカの類が多い。
だけどそういうバカでないと本当には祈願ということを最後の最後まではできないのが真実です。
独立するまでに皆淘汰されてしまう。
たまたまそこまでは正直にやっていても途中から変な欲を出すと、必ず天罰が下って滅ぶ。
だから祈祷の道はある意味、バカの道です。
どれだけ無用の欲は捨ててバカになれるかが勝負です。
どれだけ金集め、人集めするかじゃない。
そういう馬鹿になれなければ結局は欲出して道を誤って滅ぶ。
経営上手など二の次の世界です、まったくなくてもいい。
「私の言うこと聞けばよくなるのに、なんて頑固でバカな住職だ・・・」などといっているうち本人が先に滅んでいく。
世界が違うんだね。それがわからない。
だからうちはね、祈祷を身につけてひともうけしたいと思って弟子にしてほしいなどというお方の来るところではないのです。
バカはバカでももともとのただの馬鹿じゃ駄目。
修行して成るバカじゃなきゃホンモノの馬鹿じゃない。
私はある意味、そういうバカな弟子を養成できて満足ですね。
そういう馬鹿な弟子はさらに輪をかけてバカな師匠でないと養成できない。
天下に名をも成さず、財宝も蓄えず、ただ自分が心に思うところを行う。
仏道の人はそれでいいと思うのです。