つまり宇宙全体のような巨大な海の中に須弥山がそそり立ち、その頂上に八葉の大蓮華があり、宮殿がそびえたつ。
その宮殿の中にはマンダラがあり、中央に本尊の梵字がある。
宮殿は胎蔵法と金剛界法の考えで少し違うけど、まあ基本は同じ。
つまりそれが結界の中にあるイメージなんです。
つまりこれは仏教的な宇宙の姿というわけ。
荼吉尼天だろうが観音様だろうがそこはいっしょ。
どっちが絶対的にえらいとかいうのは全くない。
「互いに主となり、伴となる」とあるとおり。
真ん中に来るのが即大日でナンバーワンなんです。
鬼神が主で如来が伴だっていいわけ。
たとえば歌の教室の代表は歌教えてる先生だけど発表会だと生徒でしょう。
いってみれば主役は決まっていないということ。
だからたくさん本尊がある。その誰が主役でもいいんです。
上も下もない。
さて道場観ではそういう宮殿や仏の様をアリアリ観想するんだけど、だけどイメージ作りにあんまり時間かけても意味ないんです。
つまり、目的はイメージがはっきり作れることではなく。もっと深い領域に落とし込むことなのでむしろ全体像でざっとでいい。
個々のイメージに関するところを勘違いして凄くこだわる人がいるけど、あんまりこだわると逆効果、人間のイメージって細部を追っていくと前の部分は消えるようにできてます。
つまりそういうイメージは時間上の存在でキープはできない。
だからコツは全体像でざっくりとでいいんです。
世間の瞑想と勘違いしてはいけません。
長くやりゃいいわけじゃない。
そういうところ瞑想などしていると逆にみぢかくてこんなんじゃダメではと勘違いする。
道場観はイメージがうまく、できるできないの技術ではなく、そこにそれがもうあるのだという観念のほうが大事なんです。
そこがコツだと思っています。
行軌では言葉でいろいろ書いてあるけど、そこからざっくりうけるものでいい。