金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

法器にあらざれば法は盛らず


常識といいますか、基本的なことができていないのに法なんか授けたらと変な術者を作ってしまいます。
今期の修行者さんたち。古い人はもう2,3年たつのに、なかには大峰も一周した人もいるのにね。こんなの変だと思わないのかなあ・・・?ってことができていない。

しかも、それを誰も直さない。

そういう時、指摘すると世間では「私がやったんじゃありません!」とか言う人いますね。世間じゃどうだか知らないけど、この世界ではそんなのバカの下地の上に大バカの釉薬を塗るような発言です。

おかしいと思うならだれがやったことでも直すのが筋だからです。
赤ちゃんが捨ててあったら自分が捨てたんじゃないから・・・ほっとくの?
だからダ~レも直さなかったら・・・気がつくまでなんにも教授はしないようにしたいと思います。
とても伝授なんてそういうレヴェルじゃないもんね。
このまま坊さんです。修行者です・・・ってちょっと人前に出せない。人の祈願するという人として?なおさら出せない。

勿論これらの方々はみんな心の澄んだ、いい人で信仰の深い方ばかりです。そこは信じていますが・・・
でもそれだけじゃダメなんです。修行って。
それはただの「善い人」で「修行者」じゃないね。

取り合えず、年内、予定していた理趣分の指導なんかはや~めたっと。

もし「そんなのやった人の罪じゃないの?なんでほかの人まで…それ、変でしょ。」という人がいたら・・・私はその人の心根はやった人物以下に思います。大乗の仏道修行は独覚道ではない。

大乗では僧伽(サンガ)つまり「僧団」という考えが大事です。誰かの行為は僧伽を見る基準なんですね。
あの人はあの人、この人はこの人で関係ないのではない。
最終的には教えている師匠の責任でもある。
だから全体でとらえるレヴェルも大事なんです。
そこには「わたしは関係ない」はない。

修行する人は法の器です。法器という言葉があります。
法って如法にやればそれなりに効く。
だけど心こめたいいお料理はちゃんとしたお皿に盛るでしょう。
割れた皿や小汚い皿にゃ盛らないでしょう。
それは何に盛ろうが法は法だけどね、・・・それじゃ法が泣きますから。
法を授かれば修行者らしくなるわけじゃないです。
修行者の器ができて初めて法を授かることができる。

でも、皆さんに一番最初に言ったとおり、声荒げて怒ったりしません。指摘もしません。自分でわかってもらわないと意味ない。私のために気付いてほしいんじゃない。ご自分のためですから、
だって常識の範囲だもの。
大昔二十代の終わりころ、ある仏教の集まりに行った。
そしたら、みんなすごい話している。「五体投地10万遍やった?」「うん、もうとっくに終わった」とか。
頭を緑と赤で染め分けたオバサマだかお姉さまだかよくわかんなかったけどそんな話している方もいて驚きました。
凄いな!と思ったけど集まった方々の常識のなさはもっとすごかった。
別になんかひどい事されたというわけではないけど。
それでも、そこにはもう二度と行く気はなかったですね。
いやあこれ違うなと思った・・・
こういうのって・・・悪くするとただ神通力があるだけの妖怪みたいな人間作ります。
普通の人の持たないものもつならね、普通じゃダメなんです。