金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

舎利信仰は呪物崇拝に非ず


きいた話ではオウム真理教頭目麻原彰晃の遺骨を四女が受け取り滝本弁護士と図って粉々にして海にまくという事を考えているそうです。

しかし、国家が手助けしてくれないと…というのに対し、国家は遺骨を渡すとこまでがお役目という建前論で話が進まないといいます。
でも、これはまかりまちがえばオウムの残党が入手したりしてメンドーなことになるのはわかりきっていますから・・・。
石頭で拒否することだけを考えずに、だめならダメで代替案を出すべきでしょう。

日本の政府ってどうしてこうなの?

国家公安部にとっても大事な話のはずです。
そういう苦労をするのもそもそも麻原の骨を神格化した舎利信仰など起きては面倒だという話なのではないのしょうか。

そもそも「舎利信仰」とはなんぞや。
これは初期仏教の本尊ですね。お釈迦様のお骨はその教えのまさに「骨格」と考えてその象徴としてまつられたもの。
原始仏教では礼拝する対象はなかったから。
しいて言えばダールマを尊崇する。
お釈迦さまがなくなってから、その象徴です。

だから「呪物崇拝」ではない。

お骨自体はお釈迦さまも我々も同じ人間ですから成分は変わるわけない。
カルシウムの塊です。
それを尊崇するのはカルシウムがありがたいのではなく、そこに仏教の信仰、お釈迦さまへの帰依が不可分になっているからですね。
お骨自体はお骨でどうということはないと言うと怒られるかもしれないですが、敢てキッパリ言いますが実際そうでしょう。

でも、お舎利にはいろいろな不思議な霊験があるといいます。
「お釈迦さまの骨に霊験があるのをお前は否定するのか?」と言われれば、ハッキリ言って骨自体に霊験などあるわけがないんです。
お骨自体の霊験は私は否定します。
しかし「舎利信仰の霊験」は否定しません。ここ大事です。
古来いろいろ言われていますし、現代でもお舎利が増えるなどの不思議もありますね。

この間も知っている人が持っているお舎利が増えたという話を聞きました。
でも考えてみてね…それって本当に釈迦のお骨じゃないんですね。
スリランカあたりで入手したというし色のきれいな微細な粒。
こんな骨はありません。そうでしょう。

一説にはチベット仏教では高僧の遺体を焼くと舎利が出るというけど、それがどんなものか?私は見たことない。またこういう粒粒とは別なものでしょう。

つまり舎利にまつわる不思議はお釈迦さまのお骨パワーではないんです。
むしろお釈迦様のお骨に対する「信仰のパワー」でしょう。
だから舎利信仰自体は真骨がなくても、七色のきれいな粒粒だろうが青森あたりの海岸でとれた舎利石だろうが成り立つし、真摯に拝めば不思議や霊験もある。
つまり仏舎利信仰を支える護法の仏天の加護のなせるわざです。

なんかもの自体に崇拝すべきものがあるというのは仏教信仰のテーゼではないですね。仏教はザックリ言って一切空ですから。
空である事物に価値を置くのは我々の信仰のみです。
それで初めて宗教的な存在になる。
国宝級の仏像だって元は木や金属の塊でしょう。素材に有難いものがあるわけじゃない。
仏に刻んで拝んでこそ有り難いわけです。
信仰されなきゃただの彫刻。でも彫った人に信仰があって彫ったものは違っているね。
お舎利も同じ。
例え霊能者がこの舎利はすごいパワーが出ているといってもそれは物のパワーではなくそこに寄せられた信仰のパワーです。

もの自体に何か無上の価値があるというのは呪物崇拝で仏教とは違うものです。
人間の信仰を超える宗教的価値はありません。
私はそう思う。