金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

霊的感覚は当てにしません。

 
「この度は毘沙門さまの御祈祷、ありがとうございました。大変遅ればせながら、本日、御札の志納料を振り込みました。9月末から京都、滋賀へお詣り旅行に行っておりましたため、ご送金が遅くなったことをお詫び申し上げます。
 
早速、毘沙門さまの御札を封筒から出したところ、
なんと言ったら良いのかよく分かりませんが、
物凄い「意志」のようなものを感じました。
「来たぞ」とでも言っているような?
 
毘沙門さまの御札は昨年から頂戴しているのですが、
去年はそのようなものを感じませんでした。
2年目だから認めてくれたのでしょうか?
「私への信仰を続ける気があるんだな」という感じで?(笑)
あるいは、京都、滋賀から戻ってきたところなので
あちこちの神社仏閣から頂いたエネルギーが、
毘沙門さまと共鳴したのでしょうか。
 
まあ、何はともあれ、その毘沙門さまの「意志」を感じるようになったおかげで、毎日の御札へのご挨拶がより一層楽しくなりました。
昨年頂いた飯縄さまの「火伏せ」の御札からは、
この感じを受けません。それはやっぱり昨年お札を受けたのが「1年目」だったからでしょうか。
年末に「2年目の御札」を頂いたら、「来たぞ」と言ってもらえるかな?(笑)
 
取り留めもない話で恐縮です。
18日は仕事の都合で伺えないと思います。
残念ですが、随喜出来ない分、一生懸命拝みます。」(S様)
 
『縁の問題かもしれませんね。』(羽田)
 
「毘沙門さまとの御縁………大変有難いことです。
飯縄さまに今以上のご縁を頂けるかは
年末に御札が届いたときにわかりますね(^◇^;)」(S様)
 
『全ての神仏に縁ができる必要もないですが、諸仏諸神はどなたも総願に衆生無辺誓願度と言われますのでどなた様でもお救い頂けない方はないのです。失礼ながら水を差すようで差し出がましいですがそのような感じのみをあてにしてはなりません。何も感じなくても御加護があるものも多いのです。
霊的な感覚があったにせよ、それは自分のとらえられる感じ方の一つに過ぎません。
 
信徒さまでもないのに少し突っ込んで差し出がましいいことを言いました。お許しあれ。』(羽田)
 
「羽田先生、御指南ありがとうございます。
逆に、非講員の私のほうこそ、先生からお言葉を頂き、
大変恐縮です。
些細なことに囚われず、平常心でいられるよう
心がけて参ります。
ありがとうございました。」(S様)
御札のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
 
 
※このやり取りには大事なことがあります。とかく霊的な感覚の鋭い方などにはこうしたことがありがちですが、さりとてそれを基準としてしまうことは良くないというのが私の考えです。
ここのお札はスカスカだとか、これは祈ってあるねとかわかる人も沢山います。
 そういう方が私の周りには多くいましたので、それが一種の感覚であること。そして、感覚である以上その限界もあることもわかります。
 
この方は当院の毘沙門さんのお札のパワーをお褒めて頂いています。
ただし私においてはどなたにかかわらずそのようなことは尺度としません。
お札がどうあれ仏縁の問題だからです。
例えば思い立ってある霊場にいってみたくてお参りに行くとします。
それは半分は呼んでいただいたのです。
たとえそこのお札売り場でも求めたお守りがロクに拝まずにただならべてある物であっても,呼んでいただいた神仏との縁をつなぐものであることに変わらないのです。
 
お札でどれだけ拝んだかわかる。そういうことはありますが目に見えぬ仏との縁は別物です。
自分自身の感覚も含めてそう思っています。
折角お褒め下さっているのに・・・恐縮とは思いますがそのようなものの見方は信徒も行者も信仰を大きく誤る第一歩です。仏教の祈願札は信仰のツールに過ぎず呪物崇拝ではないからです。
 
神仏の働きは私たちには感じられない働きも多いのです。
そして、この方も言われるように信に応じてということもありましょう。
ですから私はエネルギーだのパワーが出ているとかいないとかは鴻毛の軽きにおいています。
なかには「霊的な力がなくてわからないからそんなことというんだ。」と思う方もおありでしょう。
その通りです。私にはまったくそういう霊的な力などは有りません。
 
あえていうなら私においては霊験こそが実証でありそれ以外はなにもありません。
信仰の立場から言えば、たとえば神社仏閣であなたが御守りを頂き一年無事なら霊験はあったと言えましょう。その結果さえあればパワーが感じられようがそうでなかろうがどうでもよい。そう思っています。
合掌。