私の殺生戒は殺生しないことではない。
殺生しないで生きられない。
殺生していないというのはウソだ。
直接的でなくても間接的に皆殺生している。
肉食をしないビーガンとか言っても…その野菜は山を切り開き、野を焼いて作物造る。農薬ぶりまいて作る。
ムシも死ぬ。益虫も害虫もない。鳥も死ぬ。狐やウサギも行き場を失う。
見た目の奇麗な野菜や果物造るために大量虐殺を間断なくやる現代。
ビーガン自体を悪く言う気は毛頭ない。ただ。皆おおかれ少なかれ殺しているのだという自覚が欲しい。それこそが懺悔だ。
私が今日まで生きてくるためにどれだけ生き物が直接的。間接的に死んだのか計り知れない。
その累々たる屍と怨嗟のうめきの上にわが生は成り立っている。生きることをやめない限り、今日もそして明日も。
上には神仏に手を合わせ、下には虫にまで手を合わさざるにいられぬ。
この私が果たしてそんなにまでして生きてくる価値があったのかどうかはわからぬ。
疑問でしかない。そこの価値すら判断できない・
そこは御仏に問うほか何もない。
子どもの頃読んだ宮沢賢治の「よだかの星」にはそのことを痛切に突き付けられた。
今でもその思いは基本的に何一つ変わらない。
それが私の戒めであり、すなわち殺生戒であります。