真言念誦がなかなか成就しないのだが・・・というのに対して「座禅をしていたかと思えば、今度は念仏が有難いと打ち込み、またしばらくたつと今度は真言念誦をしている。そしてそれもまた続かない。そういう人は何も成就しない。」
実に味わうべき言葉であると思います。
あっちゃこっちゃやって方法論を模索する。
つまり自分の修行ではなく法に頼る。
そんなところに行はない。
准胝独部法を授かった時ははありがたい。いや、もったいない法だといいながら、今はもう飽きて唱えない人もいるだろう。
それで次は何かないかと思う。
そんな人間の要求にこたえる必要は何ひとつもないと思っています。
10年でも20年でもやればいい。
べつに飯のタネに秘法を教える気はない。
醍醐の理源大師聖宝様は40歳までは無量寿法のほかは修行しなかったという。
実に味わうべき言葉です。
同じことを嫌になるほどやって、やって・・・やってこそはじめて分かることも多いのです。それができないのは修行じゃなくて娯楽気分でやっているからですね。
腰が据わらない。
あっち行ったりこっち行ったりするようなものは駄目。
所詮みこみなし。