仏道では懺悔が先であるというとそんな悪いことしていませんという人がある。
それをいうのは未熟な証拠です。
法律に触れるようなことはしていないというだけなら懺悔はいらない。
宗教的な懺悔はその人の成長にともない変わってしかるべきものです。
私たちは一人前になり、円熟するにしたがって今まで見えてこなかった自分のしてきたことがいかに人を傷つけたり、ひどいこと、まずいことだったかがわかるというのが本当なのです。
父母に言ったこと。子どもに言ってしまったこと・してしまった仕打ち。
友達に思わずしてしまったあの対応。こんなこともした・・・あんなことも言った。
二度と会わないどこかのしらない人や犬や猫や小さな生き物まで・・・
思いは尽きない。それが人としての成長とは別ではないのだと信じます。
そして、そこにはせよと言われずとも「すまなかった。申しわけない。」と手を合わす自分がいてしかるべきです。
しかしながら人が人として成長するというのならそういう間違いは当然山ほどかさねていくことになるのです。最初から全き人などどこにもいない。
ですから懺悔はつきませんがそれは成長のための懺悔であり、前に進めないような停滞のための懺悔ではない。
そうであるなら懺悔の質も当然ながら変わらねばならない。
人が一人前になるまでにはずいぶん多くの間違いを繰り返すものです。それは死ぬまで十分ありえます。むしろ老年になって傲慢、わがままの限りを尽くす人もある。
それは実はどこまでもやまないことなんです。
そしてそれが見えることが人としての成長の証しでもあると思います。
だからその心で今日も懺悔文をお唱えいたします。