拙寺も人手が足らない。
そこで時々お手伝いに来てくれるアルバイトのお坊さん。他宗の方ですが毎日必ず略施餓鬼をする熱心な方です。
略施餓鬼は施餓鬼の簡略バージョンで彼が言うには力のある餓鬼はこれで救われる。
でもそうでない福徳の薄い餓鬼は本式の施餓鬼作法が大事だと習ったそうです。
でもいくら略でも毎日してるのでしょう?
客観的に見ているとどうもあまりふるわない。長年施餓鬼しているというのに流浪の身の上といっては失礼ですが落ち着きをえない。
何故なんだろう。もっと功徳を受けてしかるべきです。
「どこかがまちがっているのかも?あんた、大森先生と知り合いならば先生にチェックしてもらいなよ。」といいました。
師匠からもこんな話を聞きました。
施餓鬼といっても人さまざま。私の師匠は若いころ有る大寺の施餓鬼でお導師さんが重要な印言を結誦しなかったため、餓鬼がそばまで集まってきていながらものを食べられないで騒いでいるのを感じたそうです。
それで施餓鬼会の後、こっそり行って加持したという。施餓鬼はそのように厳密な密教作法によるものです。それ見ていたお坊さんが「白戸さんは失礼なことする!」と言ったそうですが餓鬼が食事ができないならそんなの施餓鬼じゃないよね。
そのほうが主役の餓鬼やお施主に失礼だわ。
だからお施餓鬼といっても色々なんです。
実際に施餓鬼檀作って簡単にお経拝むだけでは密教的に言えば不十分です。
大森先生のお施餓鬼は浄厳さまという事相に厳しい江戸時代の名僧の流儀でなされていますからまず間違いはないと思って私もお願いしています。
実際、霊験を受ける方も多いようです。紹介した方からも喜んでもらってます。