金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

母の師匠

母の絵の師匠 高間惣七 画伯の絵「緋インコ」と思われます。

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 「独立美術会会員の洋画家、高間惣七は1月26日午後零時5分、心筋硬ソクのため横浜市の自宅で死去した。享年85歳。高間惣七は、明治22年(1889)7月25日、東京、京橋に生れ、大正5年(1916)3月東京美術学校西洋画科選科を卒業した。美校在学中の大正2年(1913)第7回文展に「午前の日」が入選、翌第8回展では「養鶏場」入選、褒状をうけた。その後大正4年「漁師町」、同6年「浮雲」が入選、同7年第12回展「夏草」が特選となった。続いて大正8年第1回帝展から無鑑査となり、「幽村の春」、第2回展「海浜」「裏庭」、第3回展「花園の鶏」と連続特選となり、大正14年には帝展委員にあげられた。その後も帝展、新文展で委員、審査員をつとめ、戦後も第9回日展まで審査員をつとめた。その間、大正13年(1924)3月には、牧野虎雄、斎藤与里らと槐樹社を設立(昭和6年12月解散)、昭和7年(1932)東光会創立に参加してのちに顧問、そのほか新光洋画会、主線美術協会などにも関係した、昭和30年(1955)、突如、官展系との関係を絶って独立展に出品。勇気ある行動として話題となったが、同年独立美術協会会員となって、以後、独立展を中心に主要な作品を発表してきた。昭和34年(1959)第5回日本国際美術展では「海風」を出品して優秀賞を受賞、昭和39年には渡米してマイアミ近代美術館で個展を開催し、同48年4月勲三等瑞宝章をうけた。鳥類を好み、自宅にも多数飼育して鳥を題材とした作品も多く暖色系の明るい色調を特色とした作風で知られる」

 

高間先生は美しい鳥のほか熱帯性海水魚など色の鮮やかな生きものがお好きだった様です。母がアトリエにお邪魔すると当時は珍しかったそういう南の海のカラフルな魚たちが宝石のように泳いでいたそうです。

御子息も同じように海水魚を愛される方らしく、お会いしたことはありませんがちょくちょく私も行っていた南林間の海水魚店にお出でになっていたようです。

母も高間画伯の影響でか、家には大きな禽舎があり、美しい鳥が数多くいました。

 私が熱帯の海水魚を飼い始めたのも、どうせ飼育するなら色彩の美しいモノを・・・という母の勧めもあってのことです。

それまでは石鯛やメジナなどの近海魚を買っていました。

ちょうど寿司屋のいけすの小さい感じです。(笑)でも熱帯性の魚類に鞍替えしました。

 

いらい30年以上熱帯性海水魚の飼育をしています。

これは今の水槽、水槽はすぐ苔が生えて写真のように曇りがちです(笑)お恥ずかしい。

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母の師は師事してほどなくなくなってしまい他にも大石哲路画伯・宮永岳彦画伯などにつきましたが、やはりそう長い間のご指導を仰がぬうちに他界されたようです。

母は色彩の鮮やかな絵を多く描きますがこれは高間先生の影響でしょうね。