法華経の見宝塔品には法華経が説かれるところには地面から大きな多宝塔が湧出するという。
いわば法華経のシンボルタワー。
これって罰当たりだけど漫画の黄金バットのナゾ―タワーを思い出す。(笑)
「ロォーンブロゾ~!」
まあ、若い人はしらないよね。レトロなアニメファンだけ知ってる。
この多宝塔ってなんだろう。
法華経にはたとえ話が多い。「法華七喩」と言って七つある。
例えばこんなお話。
久しぶりに会った友人がとても困窮してる様子。
ふたりでお酒なんか飲んで・・・
主人公は友達がねているうちにかわいそうだからと着物のうちに値打ちの高い宝珠をそうっと入れておいた。
「これでコイツの助かるだろう・・・。」
でも何年かたって彼にあったら前にもまして貧乏のままだった。
実は彼はすごい値打ちの宝珠が着物についてるのを知らなかったんですね。
それでその時に教えてもらって初めて驚くのです。
「いやあ~私ってすごいお宝もっていたんだ!」ということを。
これは「法華七喩」のうちの「衣裏懸珠」の喩といって教学的には内在する仏性の尊さのお話を例えたもの。
宝珠は仏性のことです。
でも仏性と言っても「あなたの中には尊い仏性が存在するのですよ。」と言ったところで哲学的な話で終われば「ああ、そうかい。それが何か?」でおしまい。
即物的な人は仏性よりいくらかもらったっ方がいいという話にもなるかも。
でもそのレベルはまだ衣のうちに宝石があるのを知らないのと一緒です。
自らのうちの仏性とは一切のメンドウから離れた存在。
つまり自己肯定の極みだ。仏の側に自分はいるということ。
その認識こそはこの宝珠に気が付くことになる。
この自己肯定がシッカリとできるとズズンと地下から宝塔が湧いて出る。
これっていうのはそれがかたちで見せられるということ。
私は平たく言えば「霊験」だと思う。
でも霊験は御利益だけじゃない。
御利益とかの話では無く、自分が変われば必ずその印が目の前に現れるということ。
それが多宝仏塔です。でも気が付かないで見落とすかも。
うかうかしてると。
真の多宝塔・それは人だったり、起きてくる物ごとだったり 言葉だったり・・・仏教に触れて何かが変わる。
それはすぐ形になる。だから「証明法華の多宝塔」というのです。
それが多宝仏塔。
印を見逃さないこと!
それが多宝塔を見る「見宝塔」ということですから。