金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

こころ迷えば法華に転ぜらる

「景徳伝燈録」によれば禅宗で六祖とされる慧能禅師のもとに法達という修行者が訪ねきて対談する。

慧能の系統はのちに「頓悟禅」という中国南宗禅の系譜へと続く。

これに対して漸悟を解くものを北宗禅と言った。

法達は日頃、「自分は法華経を読むが自分はなかなかその真意が得らないのです。」という。

慧能は「そうだね、たとえ一万回読んでもそれを得られない者には得られないでしょうね。」と言い、そして法達に「じゃあ、実際に読んでごらんなさい」といって方便品まで読ませておいて中途でこれを制して言う。

 

「法華経というのはなぜ、仏が世の中に出現した理由が書いてあるのです。

それは仏が人々に仏の知恵や見方「仏智見」を身につけさせるために出現されたのです。

それが十分に備わっているのは如来だが、でも知るべき大事なことはそもそも仏智見とはあなたの心そのものをおいてに他のどこにもないということです。」と。

 

そして「その心迷えば法華に転ぜられ、その心悟れば法華を転じることができる」という一偈で聞かせる。

 

法達は「それは凡夫には高度すぎませんか。古への諸々の大声聞衆でさえ遠く如来の知恵に及ばないのに、どうして凡夫である者にそれがわかりましょうか?」とさらに問う。

 

慧能は「それはすべて自分の理解、限界というものにこだわるからそうなる。

法華経において仏は本来そういう差別はないと言われているのだ。」と説く。

 

さらに「この真実がわかればすべてが無上に尊いことがわかる。

そして大自在境を得るだろう。究極においては仏だの凡夫だのという喩えもいらないのだ。

法達よ、これがわかればもう読むも読まぬもない、読まずして真実に読むのに異ならない。」という。

 

法華最第一といいながら、このあたりの気づきがまるでない人は大勢いる。

ばかばかしいのは末世だから方便品と寿量品以外はダメで読んではいけないなどという噴飯ものの考えもある。

馬鹿らしくて相手にもならない。

最も優れた教えも愚者にとってはその肝心な料理をなげうって皿の良し悪しを言うがごとし。

そういうものの多くは求める現世利益のためにやみくもにそれを信じたいだけなので道など求めていない。

真如仏性は法華経にあらず、われらの内にある。それが全くわからないなら効能書きである法華経などホゴ同然。いや、害さえある。

よく効く薬は使いどころ間違えば毒にさえなるかも。

まさに法華に転じられる典型だ。