「人生の目的って何なのでしょうね」と聞かれた。
わからないけど・・・
まず存在すること。
そして自分の存在を肯定できる生き方をすることかな。
なぜそう思うか。鳥や動物は皆そうしているから。
自己否定する動物はいない。
でも人間は自己肯定のためにいろいろおぜん立てがいる。
メンドーだね。だから時にそれを見失う。
多かれ少なかれそういうことはまあ普通にある。
ずーっと見失ったまま生きていく人もいる。
そういう人が本当に自己肯定出来たら涙止まらないだろうね。
鳥や動物の場合は普段からそうしてるから何とも思わんだろうけど。
生き物の基本は同じ。
法華経の方便品に「十如是「」というのが出てくる。
「諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」
これは諸法実相と言って前半十四品を代表する大事な教えだというのですが、実はもともとはなくて法華経を訳した鳩摩羅什がつけたしたのだという。
私はザックリ言えば如是とは「そのまま」という意味だな。そのままで価値があるという意味だなと思っている。
彼が受けた法身釈迦牟尼仏の天啓だと思う。
少なくとも頭で考えたならもう少し説明的に足すだろう。無論、鳩摩羅什は拝み屋さんじゃないからただ霊感でこんなお告げでました!ではない。それでもそれをもって直感的に学問的な自分の法華経論もバッチリまとまったはずだと私は推察する。
鳩摩羅什は大学者だが仏教者だ。仏の教えでないと思えば自分の考えで余計なものを足すわけがない。
実験科学の世界であと一歩がまさに天啓のようなヒラメキで解き明かされることは良くある。そこは別に科学的じゃない。
思索においても同じだと思う。論理的に考えた最後の一歩は飛躍的かつ非論理的であったりする。
子どもの頃チャールトンヘストン主演の聖書物語「十戒」という映画を見た。
神様がシナイ山でモーゼに十の戒律を与える。その出現の時「われはありてあるものなり」といわれる。
ありてあるもの!
でも仏教的に言うなら神様のみならずだれでも「ありてあるものなり」ということになる。
如是とはそういうことがと思っております。