お盆はそもそも神通第一と言われた仏弟子目連尊者の母上が餓鬼道に落ちているのを救う手立てとしてお釈迦様が説いた方法と言います。
目連尊者は今でいうエスパーでしたが、そんなエスパーでも業報はどうにもならないのです。
目連さん自身も狂暴な異教徒に捕まって殺されてしまいます。
超能力などというものも自分の運命を捻じ曲げるまでの力はないのです。
まして超能力で地獄に落ちている先祖を救ってやるなどということは仏教でいいません。
彼の死は先の世の罪業で一説に過去仏の侍者を故意にからかって杖でうち傷つけたことによるともといいます。
罪業を消すのは基本的に善き行いのみです。
お釈迦様が目連さんの母を救うために示されたのはもともとは千僧供養でした。
千人のお坊さんを呼んでお食事を施したのです。
ようするに多くのお坊さんにお供養することです。
転じて現今に棚経に見えたお坊さんにお供養してお食事やお菓子を差し上げ、お布施を渡すのもそういう意味です。
檀家寺のない人のなかにはなるだけお布施の少なくて済むお坊さんを探す人もいますがそう言う気持ちでは意味のある供養になりません。
探すならお布施が安くて済むお坊さんでなく、仏教に精通した修行の徳のあるお坊さんを呼び満足なお布施や接待をすることです。
またお施餓鬼が並行して行われることも多いですがこれも餓鬼に施し徳を作ることで先祖の福分を養う意味です。