引き寄せの法則なんか見ると祈願は具体的なほどいいと書いてある。
わたしの祈願は全く逆です。
色々御祈願は承るがあまり具体的なものはきかないことにしている。
祈願へのステップが具体的すぎるのはよくないからです。
例えば医者になりたいから医大に入りたい。これは当たり前の祈願だね。
医大に行かずに医者の免許は取れない。
だがもっと限定的なことをいう人もいる。
たとえば高級官僚になるには○○大学だから○○大学でないと絶対ダメとかいう奴。
私に言わせればそう言う人は要はエライお役人になるという目標さえシッカリあればよい。
それを日ごろ拝んでおけばいいんです。
大学受験一回につき一回ごとに拝めとか言ってくる人いますが、いりません。
そんなもの。
ハッキリって要は目標につながる大学に入れればどこでもいい。つながり方は仏さんが知っているから大丈夫。
もっとひどいのになると「会社に資金がない。つぶれそうだ。独り身の伯父がいて今末期ガンだから死ぬとこちらに大きな遺産が来る。
そうなれば会社も従業員も助かる!
どうせ伯父は末期がんで高齢で助からない。だから少しばかり早く逝ってもらえば・・・」こういう信者が来たとする。
これなどはどう思います?
こういうのを「ウ~ム止むなし!」として拝んじゃうのはサイテーのバカ行者です。
この人は会社を助けるには伯父を殺すほかないと勝手に方法論を決めてるんです。
そういうのにゼッタイ載っちゃだめだ。
行者は常に我々の知らない無数の手だてを本尊は知っていると考えないといけないのだ。それがないのは本尊に対する信仰がないのと同じ。
要は会社がたすかりゃいいんでしょう。叔父さんは関係ない。
あると思っているの依頼主だけです。
たとえば・・・伯父さんがまんがいち早めに亡くなっても、その遺産はあらかじめどこかに寄付とかいうことになっていたら何の利益もないわけです。
もっというなら遺産がいくら入っても経営自体がまずければ結果はつぶれるほかない。
関係ないことを勝手に結び付けてくる信者のいうことは聞かないこと!
私は徹底してそうしています。信者のいうことはおいそれと聞かない寺です。(笑)
そうでなく本尊にただこういう結果にしてほしいという祈りさえすればいいんです。
細かいこととごちゃごちゃ言っても先ず駄目なものは駄目。
途中経過の細かい手順まで聞いても思うようにはいかない。
でも目標設定がきちんとあれば自然と物事はその方向へ滑り出す。
人知知れぬ形で。それが信仰と言うものの値打ちだと思う。
神仏はロボットや召使じゃないでしょう。