かなり密教において多く学び、知識もあるけど祈祷はできない。自信ないという方が意外といらっしゃるようです。
祈祷と言うことはあまり難しく考えることはいらないと思う。
力みも気合もいらないと思う。
もっとも加行位や修行時代は色々試行錯誤して、かなり気合い入れてやることは大事だがそれは試行錯誤の体験自体が不可欠だからです。
密教祈祷の結果は究極は自分がすることではない。
行者の役目はジョイントです。
神仏と信仰者のつなぎ。
勿論そのための努力精進は大事です。
それには基本は如法に授かって如法に修行すればよいというのが密教の考え方。
それが法を信じるということ。密乗を学んだ仏縁を信じるということ。
自分以上に法を信じる。縁を信じる。
その意味では自信なんかなくてもいい。
むしろ下手に無い方がいい。
あまり難しく考えないで素直にいのればいいのではないでしょうか・・・
苦行しないといけないとか、念力が強くないとダメとかは根柢の部分では関係ない。
むしろ苦行で出来上がったりすれば途中から肩の力をなかなか抜けなくなる。
武術で言えば満身の力技でかかっもて合気技にかなわず投げられてしまうのに似ている。
そうなったら神仏は苦行と言う誠を評価してはじめて霊験があるという前提でないといけないから大変です。
四六時中苦行する。
寒中に冷水に入り、断食し断眠しないといけないという観念になる。
念力の強い人も同じ。途中かなりのとこまではエスパーだから、それだけでいけるが長くやっていると「ひずみ」が出る。
それだけでやっていけない時が来る。
でも法をただの形式にしていたら法にも中身がない。頼れない。
丁度わずかな誤差が積もり詰まると大きくなるのと同じような感じ。
50代から先には体を壊したりする。あまり終いには円満にいかない。
念力があるのは大変いいがそれを主にしないことが無事につながる。
信仰があればいい。
信仰は法を信じ仏を信じることで自信とはちょこっと違います。
いくら法が効いてもそれがいつの間にか信仰からややもすれば自信に転じることで失敗する。増上慢となる。本尊が手を引く。
その意味ではどんな霊験があろうが私は自信などもたぬように自戒しています。
一回一回を謙虚に祈るにはこの心は必要なことと思っております。
特に私のようなわずかなことでもややもすれば慢心しやすい小器の者はよくよく気を付けるべきだと思っています。