今「樹海村」という映画やっていますね。
自殺で樹海に入ったはいいが死に切れない人が妖怪化して村を作っているというホラー映画。
まあ、ホラー映画っておおよそそんなもんですからあえてばかばかしいとまでいいませんが・・・こういうの怖いと思ったことはない。
その手の映画はハラワタとか腕がもげたりしてげーっつ、気色悪いとかは思うけど・・・
わたしは樹海の横通ったことあるけど、な~んにも感じなかった。
風穴とか人穴とかもお参りしなした。
風穴は富士山の地下にある大弁才天のお浄土につながっていると言います。
古くは富士山大権現は弁才天の信仰があった。
まあ、樹海の奥に入ったわけじゃないから何とも言えませんが、よくテレビで樹海の入り口で霊能者が「ぞっとする~!」とか言うのは全然感じない。
ま、霊能者ではないからね。
のどかで小鳥のさえずる良いところとしか思ない。
でもそもそもそういう自殺される人ってもう生きる気力もないのだから強烈な思念なんか残ってないと思うよ。そうやって身も心も森に飲み込まれて死ぬ。
いろいろ事情はあるのだろうけど樹海のような森や山に入って、死んでいくのはもともと太古の人間の自然な死に方な時代があったのだと思うんです。仏教の葬送儀礼が普及する以前のスタイル。逆に漁民なら水葬。死して海に帰る。
いわゆる爺捨て姨捨ても結局、貧しい地域では口減らしもあっただろうけど死期に近づいた年齢の人を山に送来ることがそもそも原点かもしれません。
遺伝子的にそう言うものが残っているのかも…と思う。
ご先祖さまと同じようにして死ぬ人々。森や山に替える人々。
そう思ってみているので気持ちの上では森で死にたいと思うのはそう不自然じゃないと思う。
故に太古の山は祖霊の住むところだったのだと思います。
もっとも自殺と言う場面だけでそうなっているのは問題ですがね。
映画では樹木とどうかしてモンスターになるんだけど、樹木と同化したい部分は同じかもしれない。
森の一部になる自然回帰の気持ちはわたしたちのどこかにあるのでしょう。
因みに私は幽霊とかそういう人間の死霊はほとんど見ない。感じないんです。
判るときは眷属や精霊や妖怪の様な世界のもののほうがはるかにわかる。
人間がらみでは昔ここでこういうことがあって・・・と言うような残留思念は感じることはある。
この間も国道一号線で試しに前方の林の中を見てみたら、「ああ、ここに家があったんだ」と思った。通り過ぎるにつれて崩れた家の土台らしきものがあるのがわかりました。
その程度です。だから霊能者の商売はまるきりできない。
多分アクセスできる領域が違うんだね。
だから逆に人の幽霊や死霊など怖いと思ったことはない。生きてる悪い奴の方が怖い(笑)
霊感覚はないからそういうのは加持力だのみですね。
まずは拝まないと私はまるでわかりません。