金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

神祇はフィールドから展開する

竹寺はなんと牛頭天王が本尊なんですね。

お薬師さんじゃなく。

これはとっても珍しい。廃仏毀釈の官憲の手も飯能の山奥にはおよばなかったらしい。

でも同時にそれはこのお堂を中心とした峰が大きな牛頭天王のパワーで結界されてきたということでもある。

その意味ではやはり牛頭天王は神祇だといえよう。

 

神祇はフィールドの力だ。

神祇はそこへ参らないと本当の意味がない。

 たとえば竹寺の牛頭天王は参れば土地がまるで違うのが感じられる。

 

実はもう10数年前 牛頭天王堂は原因不明の火災で焼失したらしい。

ときおりパワーのある神社でもそういうことが起きる。

鳥居を残して全焼したりする。鳥居は極めて特殊な霊的存在だ。

霊的な入口なのだ。

 

 

多くの場合、社殿がなくなるだけで人的な被害はない。

考えてみれば社殿と言うものは、寺院と違って庫裏がないから人的被害はない。

完全に独立した神のための建物なのだ。

 

伊豆大島の三原神社、四国の石鎚山成就社もそうだ。

この牛頭天王のお堂も社殿が焼けただけだ。

ほとんどお堂が消失するほどなのに山林は近いが焼けない。

社殿や御神体は焼けても何度も再興するのは実は神祇とは場の力が主体だからだと思う。つまりフィールドのパワーだ。

そうはいってもそこを物理的なものに還元する気はサラサラない。

神々とは意志を持つ霊的存在であり、ある空間を中心に展開するものであることは間違いない。

 

以前からこういうことを不思議に思っていたが、あれはおこるべくしておこる事かもしれないと思うようになった。何かしらの必要で自然と更新されるのかもしれない。

勿論それ自体は火災だから社会的な目で見れば良いことではない。

 

しかし焼けてやけっぱなしと言うのはない。前にもまして栄えているのがほとんどだ。

今日も雨の中沢山の方々がお参りした。

人知及ばぬ不思議なことだ。

 

三原神社や石鎚山神社でも社殿は焼けたが鳥居は焼けず、見事に復興し今もって栄えている。