伏見稲荷は神道で霊場だ。
でもお山に行くとお塚には仏教的なものもある。
参る人にとっては神道的に稲荷大神でもあり、仏教的に稲荷大明神でもある。
参る人次第で稲荷の宇宙は微妙に違う。
最近は神社でも歴史的な「権現」や「明神」の呼称が復活している。
いつまでも過去の明治政府が決めたことを守る必要はないから当然である。
最近の大森先生はずっと月参りているせいか、やはり拙寺にみえると背後に稲荷を感じる。
私には狐のお姿ではなく白い狩衣を着た神官のお姿に映る。
裾をまくっているから外を歩くいでたちだ。おひとりでなく何人かみえる。
稲荷には狐霊ばかりがいるわけではない。稲荷を祈ってきた宗教者の霊も働いている。
そういう方かもしれないし、神使がそのような神官の姿をとることも至って多いようだ。
「伏見の正眷属は正式にはああいう人の姿をとるのだ。」と霊狐さんからコメントがあった。
大森先生は主に滅罪行である施餓鬼に力を入れている。
仏教の滅罪行と稲荷信仰はかみあうのか・・・・?
「どうしてだ。別段なにも不思議ではあるまい。祈る人の働くところ稲荷も働く。それが仏事であっても何も変わらない。至極当然だ。寺にも稲荷は多いだろう。」
大森先生のお施餓鬼の背後には伏見さまのご加護も大きいのでしょう。