うちはよそにない修行法として動物の世話と言うのがある。
鳥獣の世話を通じて物言わぬ者たちが何を思っているのかを知る。
またわずかなこともなおざりにせず気配りして少しでも安楽に不自由なくすごせるようにしてやる。
特に奇麗にはできているが考えなしだなと言うのもある。
胸張って「わたし霊感あるんです!」とかいっても、世話させてみてそういう生き物が何を訴えているかすらわからないものは私は認めない。
何故なら彼らは水が欲しいか、食べ物が欲しいか、快適じゃないのか、体調はどうかくらいしかないからだ。要求はきわめて基礎的なことだ。
複雑極まるメンドーな社会に生きている人間に比べればはるかに簡単で判りやすいはずだ。
だがそれすらわからない。
そんな程度で霊感があるとは人さまには言えないと思う。
だから霊能者といえるような類の弟子はいない。
たとえ真実、霊能があっても霊能ありきで自己紹介をしてくる人は全部漏れなく外す。
そういう妙な思い込みは修行の邪魔以外のないものでもない。
そういう人は修行させてもご都合主義で自分の感じではそうじゃなくて・・・とか言いだして指導通りしないからね。
だったら初めからご自分の感じでおやんなさいな。
あんたの霊感なんか私の知ったことではない。
この鳥獣のお世話にようく人間の「ひととなり」が出る。
例えば鳥の水入れがゲージにかけてあるが止まり木からとんでもなく遠く離れている。
これでは飲めないが水を入れろと言うので入れてありますが・・・というバカなパソコンのようなこともする。
指摘すれば「よくわからなかったので・・・」と言う。
判るように観察するということは毛頭ない答えだ。
判らないから聞くという次善策も頭にない。
甚だしいのはゲージが開いていたりもする。
それで昔のように激しく叱ることは今はあまりしないがそれで人が判る。
それに叱っても駄目な人と言うのはあまり変わらないからね。
無駄だということが判っている。無駄はくたびれるだけだからしません。
密教は差別の教えだ。
人を見て法を授ける、正しく差別をしないといけない。
だから、お手々つないでみんなでゴールインして頂くなんて馬鹿げた小学校のマラソンみたいなことは私の頭のどこにもない。
K師は最後の師匠の弟子だったから、逆に私などの聞かされていないことも聞いている。晩年の師の教えを聞いているのは彼だ。
その一つが「弟子に皆に同じ内容のものを授けるな」というものだ。
まあ、基礎までは同じじゃなきゃいけないけど、そこから先はやはり人の器をみていかないといけないのが密教です。
信者を差別はできないが弟子はあって当たり前だ。
ただしその基準はあくまでこの人は法の器にふさわしいかということのみ。
世間的好悪ではない。
「あの人には授けて私に同じものを授けてくれないのは不平等じゃないですか!?」
「そうですよ。それが何か?」