アメリカではlGBTなどの開放をもとにあらゆる性差に無暗な風が吹いている。
ディズニーリゾートではレディアンドジェントルマンと言う言葉が消えた。
性別を言うのは差別的だからだそうだ。
そんなのはまだどうでもいいが・・・
今アメリカではお父さん、お母さんという言葉さえ滅ぼそうとしている人たちがいる。
親のジェンダーを言うものだからそういうのだろうか。
そこまでくればハッキリ言って狂っているとしか思えない。
性的マイノリティを差別しない社会の受け皿は必要だろう。
だが性的マイノリティに限らずマイノリティはマイノリティであるということを忘れてそれにすべてを合わすべき既成のすべてを葬るという試みは狂気だ。
例えば日本舞踊にも女踊り男踊りがある。
性別に関係なくどちらを学んでもいいだろう。どっちをおどろうとも自由だろう。
だが男踊り女踊りは差別だから存在してはならないとまでいうのは歴史や文化への冒涜である。
ゲイやレスビアンの結婚も認めるべきと思う。早晩そうなるだろう。
それはおおいに結構だ。
だがそのために新郎新婦という言葉を滅ぼす必要などあるまい。
今にそういうことさえ言いかねないと危惧する。
ほかにも「○○の女」などと言う演歌も差別だから取り締まらないとならないし、「男の○○」と言うような歌だって怪しからんということになる。
「○○の母」「○○の父」もいけないし、そいうタイトルの小説も発禁だ。
とにかく性別を言うのは差別だ。怪しからん!と言う傾向になってくる。
この考えは無限に拡大すれば人類滅亡の序曲だとさえ思う。
「そもそもそういう考えが差別だ!」と言うなら私は喜んで差別主義者になる。
マイノリティにはマイノリティの生き方があり、独自の文化もあるべきだ。
どうして既成のすべてまで改変してそこに組み込む必要がある?
その考えの根底には同じでないとならないという本当の差別思想の大根源があるに違いないと私は思う。
みんな違って良い。今までと違っても、そのままでもよい。
それが本当じゃないの?
そういう雑多な異質なものをそのままに許容し合う世界こそが成長した社会なのではないのか?
すべての価値観を一本化しようという考えは私には理解できない。
それは一種のファシズムだ。