金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

多様性を育てないのは「寛容」のない土壌

news.yahoo.co.jp

多様性とは人と自分の違いにギャーギャー言わないことが基本だ。と私は思っている。

そして、そのためには「こうでなくては絶対いけない」の放棄こそ大事だと思う。

ようするに在りようなどいくらでもある!という考えにならなくてはいけない。

「唯一の正しいあり方」など糞くらえだ。

というわけで世の中に「寛容」がない。

ここにいう寛容とは「寛く容れること」にほかならない。

おおらかさといってもいい。

 

口では多様性だ、LGBTを認めていくとか、差別撤廃とか何とかいうが、ちょっとでも異論があればよってたかって袋叩きにする今の日本に本当の意味でそんなものあるのだろうか。

大いに疑問だ。

しかも折れたり、謝っているのにいつまでも延々と揚げ足とって許さない。

たたきやすい敗者を鞭打つことで快感を感じている社会は危ない。

本当にこんな奴クズだと思えば相手にしなきゃいいだけだ。

皆がそう思うならそいつは社会の表舞台から消えるだろう。

 

そういうのと違ってどこかで理屈をつけてだれでもいいから、痛めつけ袋叩きにしたいだけにも思える最近の社会。そういう嫌な傾向を感じる。

 

実にしつこくて、僻みっぽく神経質で醜い。おとなじゃない。おおらかさも余裕もない。

ものによっては非難されて詫びている側より非難している側に疑問や嫌悪感すら感じる。

「もういい加減にしたらどうよ。みっともない。」と思う。

 

許すという徳がない。どこかの国みたいだ。

こんな国で多様性なんか育ちますかいな。

「君子旧悪を言わず」とか聞いたこともなければ、「恕」という文字など意味も知らねばみたこともないのだろうね。

今の日本の社会全体は徳や品格ということを忘れているのではないか。

 

私が常々よく使う言葉「私の知ったことではない」はある意味、多様性を認めている言葉のつもりなんですけどね。

裏を返せば「好きにして」ということ。