十一面観音のような変化観音は聖観音と違って独特の個性がある。
十一面様は昔から拝みにくいという。
叡山文庫でも十一面観音の行軌は少ない
信者として拝むぶんには観音様は観音様でそう大差を感じないかもしれないが、行としてこれを拝むとそれを感じます。
大体最初のうちはほとんど無反応です。
拝んでも拝んでも・・・どこまでも遠い気がする。
全然届かない。無視!
見た目は怖いがお不動様の方がずっと拝みやすい。
そもそも「十一面観音随願即得陀羅尼経」にいうように縁があるから拝めるのだがそんなに生易しくない。
要は修行させる観音様ですね。
でも在家でも出家でも一生懸命ならやがて観音様と通じるようになる。
そうなったら日ごろから守られているのが分かるようになる。
同時に「こんな祈願は観音さまにもっていけないな・・・」ということも感じるようになる。
無理やりにでも祈願成就に明け暮れる聖天信者がこの観音様を拝むようになっているのもうなずける。
そこに自然と観音様との付き合い方ができる。
それで自分の人となりも形成される。
ただただ祈願がかなうだけでは仏道修行になどなるまい。
そうなれば観音信者として一人前だと思う。
外の信仰だって基本は同じだと思います。
そこに在家出家の区別はない。
拙寺は在家でも希望すれば礼拝行をしてもらう。この観音様は修行しないと本当には
近づけない。
六観音の中には修羅道の守護者。東国には多い。
都より遠い東国ははじめはながく蝦夷との戦いが続き、ついで群雄割拠の時代を迎える。
戦乱に明け暮れる坂東武者は自らを「修羅の衆生」と考えたのかもしれない。
アシュラは三善道の初め、だが戦いがやまない。
自分の正しさにあくまでこだわる世界。善は善だが独善的だ。
だがあくまで自己の善を振りかざさないで、その善は本当に善なのか?と改めて思うことから修羅の道から抜けることができる。
そのせいか、この観音様を拝んでいると多く人間関係の難しさを感じるような案件の相談、祈願を縷々受けるように思います。